2011年11月9日水曜日

合理的選択になじまない労働契約の構造

安藤さん、ご丁寧な指摘をありがとうございます。やはり、こうして指摘をしていただくと、説明の工夫や自分の発言のいたらない点などにあらためて注目することができるので、対論は有益ですね。

1.合理的判断について
まず、労働者に合理的判断力がないのか、ということですが、これについては、私が悪質なベンチャー企業の例をあげて「労使とも合理的選択をしない場合がありうる」と指摘した点が問題となっています。

私が言いたかったのは、労働者が合理的判断ができないという意味ではなく、労働契約という契約が、当事者の合理的判断を、少なくとも売買やリースのようには徹底させえないような性格を内包している、ということです。つまり、市場における人間の行動を法的に秩序付けるのが「契約」というものなのですが、労働契約は異質な特性があるということです。

少しだけ「そもそも論」を許してください。 まず、人間は当然ながら「合理的行動」をすることが目的で生きているわけではなく、「快」を求めて生きています。それぞれの個体が、自分にとって心地よいことを実現しようとして生きています。それを基本的人権として認めたのが憲法でいう「幸福追求権」 です。そして憲法は、人々の快を求める行動が互いに衝突しあう「社会」を整序する方法として、「私的自治」という理念を提示しています。これは、市民が互いに自分の幸福と他者の幸福を確認し合って、譲るべきところと主張すべきところを合意するというやり方により、「自らの幸福追求の範囲を確保し、限界を画定する」ということです。 その最も効果的な方法が「契約」だというのは、長い歴史の中でほぼ一致して了解されているところでしょう。契約は、自分の利益と相手の利益とを合意によって調整するので、そこでは合理的な計算、予測が最も役に立つ手段となります。


ここで大切なのは、合理的な判断や行動は、それ自体が目的ではなく、自分の利益・幸福を実現するための「手段」だということです。したがって、別に合理的に判断しなくてもそれらが実現できるなら、あえて合理的判断による必要はありません。

労働契約という契約は、どの法系においても、出自を奴隷制度や徒弟制度に負っています(たとえばアメリカの雇用関係の判例には、よく「master & servant」とというタイトルがつけられていました)。当事者の一方が相手の命令に服従して相手の利益実現のために行動するという形態は、まさに奴隷や徒弟の働き方を示していますね。資本主義と市場経済が一般化していく近代においては、それが「指揮命令に服して労働すること」と「報酬を支払うこと」の対価関係を軸とした「契約」として再構成されました。しかし、やはり「相手に服従して働く」ことで相手からお金をもらうという「合意」とそこから生じる実態は、双方の間に単に仕事の上ではない人的な上下関係を生じがちであることは争えないでしょう。労働契約は、「委託契約」や「請負契約」など、相手のために自分の労働力を提供するという意味では共通する他の契約類型と異なって、「相手の命令に服する」という点が特徴なのですから。

さて、この基本的実態に加えて、一般的に労働者と使用者との間にみられる経済的格差や、労働力は売り惜しみができないという実態から、「互いの利益を合意により調整する」という合理的判断が必ずしもなされない事態が生じます。前回示したベンチャー企業の例では、使用者は、とにかく徹底的に労働者をこきつかって逃げてしまうことでとりあえず大きな利益を得ることができるなら、てっとりばやくそうしてしまうほうが「幸福の追求」としては自然な行動でしょう。また労働者の側も、日々人的上下関係のもとで働き、相手のいうことには服従するという関係を継続しているのですから、合理的判断に基づいて対抗することができにくくなる場合が一般的に生じることは当然想定できます。

このようなことから、労働契約関係においては、互いが合理的判断に基づいて行動することが必ずしもなじまない事態が生じやすいといえるのであり、その限りにおいて、特に労働契約関係を対象として「実際に不都合な事態が生じた場合の解決の方法」を体系化しておく必要があるということです。

2.契約内容の一方的決定について
これについては、欧米諸国の状況と日本とでは若干異なるかもしれません。日本では、特に正規労働者の場合、労働契約の成立時には、就くべき業務や勤務場所、作業方法、賃金の計算方法や退職の手続き、労働時間や休憩・休日・休暇等について、あらかじめ一応の合意をするということさえなされず、それらは就業規則を通じて使用者が一方的に決定し、それが周知されていて合理的な内容であれば労働契約を規律するという法制度がとられています(労働契約法7条)。欧米諸国では、むしろ労使の「経済的格差」による力関係によって一方的決定がなされることがあると考えられることが通常のようですが。

パートや有期労働契約の労働者など非正規労働者については、むしろこれらの労働条件があらかじめ特定されますが、ご案内の通り賃金や賞与、退職金、プロモーションの可能性などについて正規労働者より不利な契約形態という認識の下に労働契約が締結されることが一般的なので(もちろん例外があるのは当然の前提です)、実態としては契約内容はやはり使用者がイニシアチブをとるのが通常であるといえるでしょう。

したがって、こうした基本的な契約内容決定の枠組みや内容がいやなら、もちろんご指摘の通り労働者は転職することも退職することも可能です。 ただ、外部労働市場が成熟していない日本では、それもなかなかままなりませんが。

3.労働基準法の守備範囲について
労働者が自ら望むことを規制しないのは、労働基準法が刑罰と行政取締を手段として内容を強制するという手法をとっていることが大きな原因だと思います。つまり、労働者が自ら望んで長時間労働をした場合にまで使用者を罰することはしない、ということです。労基法は、その13条で、労基法の最低基準を下回る合意は契約としては無効だとしていますので、民事的には、たとえ労働者が自ら望んでも、「1日10時間働く」という合意は無効です。

4.売り惜しみについて
ここは少しすれ違いが大きいようですね(笑)。 私としては、労働者の側は「時間」が不利に働く商品を売らざるを得ないということを指摘したつもりです。つまり、取引に時間がかかること自体が相手との関係で不利に働くような商品が「労働力」だということです。そしてそれがほぼ労働者全体に共通だということです。かなり図式化して言えば、使用者の側は、そういう労働者が時差をもって次々現れますから、常にその時点ごとに「旬」の商品を選ぶことが可能ですが、労働者は売りたい時点で買ってくれなければそれだけ商品価値が落ちるものを他の使用者と交渉しなければならなくなります。

5.大企業への対応について
かつて労働時間規制について典型的であったように、最低基準についてさえ、 中小企業には配慮しています。大企業にも、我々から見ると厚労省はやりすぎではないかと思うくらいに、よく意見を聴いて、企業活力をそこなわない範囲での規制を「甘受」してもらっているように見えますが、この点は具体的な個別の規制ごとに検討する必要があるかもしれませんね。

6.法学と経済学
「経済学では,実証的(positive)な分析と規範的(normative)な考察の両方を行います。前者は,人々の意思決定や取引行為等に関して考察 することを通じて,世界がどうなっているのかを知ることが目的です。また後者は,世界がどうあるべきかについて主張するための取組みです。」
というご指摘、非常によく理解できます。しかし、法学でもそれほど変わらないように思います。法学も、人々の意思決定や社会の仕組みについて、実証的に分析をほどこして、そこから帰納的に引き出される結論を踏まえ、あるべき規範の構造について検討していきます。

少し挑発的な言い方をすれば、法学も経済学も、それぞれの持っているメガネを用いて、そのメガネで見える範囲でのみ社会を分析して、その範囲でのみ有用な提案をしているのだが、そのメガネが見える範囲を、経済学は過大評価しすぎで、法学は過小評価しすぎではないでしょうか。

すみません、この点はちょっと大きな話で、またじっくり議論したいと思います。

2011年11月1日火曜日

労働者には合理的な判断力がないのか (安藤)

丁寧なお返事を頂きありがとうございます。2週間ほど空いてしまいましたが,以下では,野川さんからのコメントに対する私の考え方や残されている疑問点について順に説明していきます。

1,労働者には合理的な判断力がないのか
まず「労働法は、法的に見て発生することが一般的であるとみなせる問題を対象としてその解決をはかる装置を考える」という点について,労働法学がこのようなアプローチを採っていることは理解しています。そして「事実として生じやすいトラブルを対象として一定の規制を加えることは合理的」ということも承知しています。

ただし,どのような規制がなぜ必要だと考えるのかについては,いまだにその根拠に納得できていません。この点を明確にするために,労使間の交渉力の格差について野川さんが述べている部分を採り上げて考えてみましょう。

まず野川さんは
「たとえば、安藤さんが提示している例は、経済的なモデルケースとしてはおっしゃる通りのことが言えるでしょうが、実際の現場では、労働者も使用者も、提示されているような合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生します。」
と述べた後で,
「やはり総体としてみれば労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ない」
と結論付けていますね。

ここで労使に格差があることの原因として,合理的な選択をしないことが挙げられていることに注意してください。ここで「合理的な選択をしない」とは,例えば年収300万円という待遇で仕事をしていた労働者に対して,他の条件は一定のままで仮に年収500万円を提示したとしても,転職する(または現在の雇用主へ待遇改善の申し出を試みる)ことをしない人が存在するといったような意味ですね。

これは本当でしょうか。また合理的な判断ができない人が存在していることはそのとおりだとして,誰にどのような判断力の欠如があると労働法学では考えているのでしょうか。この点を明確にする必要があると感じました。

なぜなら国家による契約内容への介入や労働組合の結成を認めることが必要な理由として総論第1章で述べられていたのは,あくまで交渉力の格差であり,判断力の欠如ではなかったからです。

もちろん私も,すべての労働者が合理的に判断できる能力を常に維持していると主張したいわけではありません。例えば長時間労働に対する規制に関して,2007年に書いた新聞記事では「一方で、退職という合理的な判断ができなくなってしまった労働者の保護も考えるべき」と述べています。

しかしすべての労働者があらゆる事柄について合理的に判断できないというのも間違いですね。実際は,ほぼ合理的な判断が可能な領域もあればそうでない領域(例えば中毒が発生すると適切な判断ができないでしょう)もあり,またその程度は人によって異なると思われます。このことを前提とすると,法制度設計の際には,人々の自由意思による決定に介入することの弊害を理解した上で,データに基づく適切な水準の規制が求められます。また規制をするだけでなく適切な判断ができるような情報提供を行うことも有益なはずです。

野川さんは,労働者の判断能力についてどのようにお考えでしょうか。

2,契約内容は使用者が一方的に決めるのか
次に,労働条件を使用者が一方的に決めている場合には法的コントロールが必要という点についてですが,一方的に決めるということの意味が不明確だと感じました。なぜなら,仮に労働条件を使用者側が設定できるとしても,労働者側にも受け入れるか拒否するかの選択が可能だからです。つまり「一方的に決める」のではなく「一方的に決めた内容を提示して,選ばせる」というのが実態ではないでしょうか。

例えば私たちがスーパーで商品を買う際には,多くの場合は相対で交渉するのではなく,店舗側が値段を決めます。そして消費者は買うか買わないか,または他店舗で買うかといった選択をします。このとき売買の契約条件を売手側が一方的に決めているから直ちに問題だと言えるのでしょうか。

私はそうは思いません。このような価格付け方法は,個別の相対交渉にかかる費用を削減するために選ばれているだけであり,スーパーが当該地域において独占や寡占でないかぎりは問題とはなりません。

確かにこのケースでも,スーパーの客が合理的な判断をできないことを前提とすれば,規制や介入が必要と言えるかもしれません。しかし値段が高ければ買い控えをするというのは,多くの客が日常的に行っている合理的判断です。だからこそスーパー側も相場を超えた極端な値付けは行わないのです。

したがって,より条件の良い職場へ転職するといった程度の合理的判断ができる労働者については,仮に使用者が一方的に労働条件を提示したとしても問題はないように思います。例えば平成18年度転職者実態調査を見ると,「会社の将来に不安を感じたから」とか「労働条件(賃金以外)がよくなかったから」など様々な理由で人々は転職していることが分かりますが,この人たちは十分に合理的な判断をしていると言って良いのではないでしょうか。

3,労働基準法の守備範囲について
「労働時間を、命や健康が侵害されない範囲にとどめるよう法が規制するということ」には違和感がありません。医学的なデータに基づく労働時間規制は必要です。しかし残念なことに,労働時間規制が実際にそのように制定運用されているとは思えません。

我が国で行われているのは,36協定があることを前提として,8時間を超えて働かせる場合には残業代を支払うことを定めるのみです。これで命や健康を守るという目的が達成されているのでしょうか。

また労基法は長時間働かせることは禁止しているが,労働者が長時間働くことは禁止していないとのことですが,労働者に判断能力が欠けていることを労働規制の前提とするならば,仮に本人が長時間労働を望んだとしても,後者こそを規制すべきではないでしょうか。

さらに言えば,合理的判断ができない人の健康を守るために必要や規制の水準は不変ではないはずです。昔の炭坑労働と比較してデスクワークが中心のホワイトカラー労働者などでは労働負荷の内容が異なります。時代や働き方の変化に応じて適切な規制の修正が必要だと考えますが,それも実現していないように思われます。

4,労働力が売り惜しみできないという点について
この部分について私が言いたかったことは,特定の相手との間での取引を現時点で行うことに価値があるという点に関しては,労使で対称的だということです。最善の取引を行わず次善の選択をすることにより,取引から生まれたはずの利益が毀損するという意味では,使用者も売り惜しみできないのです。そして場合によっては使用者側のほうが失うものが大きいということを説明しました。よって売り惜しみできないことが理由で,労働者としては「言い値で取引せざるを得ない」とは言えないと考えています。

この点に関しても,もちろん使用者は合理的な判断ができるが労働者にはできないことを前提とすれば,言い値を受け入れてしまうかもしれませんが,労働者にはそこまで判断力がないのでしょうか。

5,大企業と零細企業の区別について
「当該企業の規模や経済状況などを十分に考慮した判断枠組み」について私が疑問に思っている点は,労働法は最低限の基準を定めるという観点からは,企業規模は考慮してはいけないのではないかということです。また大企業に対しては条件を厳しくしてしまうと,大企業にならない方向にバイアスをかけてしまう点にも注意が必要ですね。

6,法学と経済学の相違について
野川さんは
「法学者は、「法学がわかれば世界がわかる」などとは決して言いませんし、法学的理解をすべての社会現象に適用しようなどとも思っていません。しかし経済学者の中には、確かに一定の層として、「経済がわかれば世界がわかる」、「社会現象は経済学を適用してほぼ解決の見通しがつく」と考えている向き」
があるという指摘をされていますが,これはおっしゃるとおり学問の性格によるものでしょう。

経済学では,実証的(positive)な分析と規範的(normative)な考察の両方を行います。前者は,人々の意思決定や取引行為等に関して考察することを通じて,世界がどうなっているのかを知ることが目的です。また後者は,世界がどうあるべきかについて主張するための取組みです。

よって「経済がわかれば世界がわかる」というのは,現状ではそこまでは実現していないにせよ,経済学が世界を分かるために様々な取組みを行っているというのは間違いではないと考えます。また「ほぼ解決の見通しがつく」というのも,すべての社会問題を考えると現状ではまだまだ達成されていないわけですが,解決の見通しをつけるための取組みが着実に行われているのも事実だと思います。

一方で法学については,そもそも法律とは世界を上手く動かす技法であり,その適切な設計と運用を考えるのが法学だと私は考えています。

似たような例を挙げるなら,物理学では世界がなぜこのようになっているのかを理解しようとしていますが,これに対して工学では様々な現実の問題解決の手法が実戦的に検討されていると思います。野川さんの指摘された点は,このように法学と経済学でも目的や手段が異なるということではないでしょうか。

以上,長くなりましたので今日はここまでにします。気長にお待ちしておりますので,どうぞ他のお仕事等に差し支えない範囲でお返事を頂ければ幸いです。

2011年10月14日金曜日

法学は自己の守備範囲を明確にする(野川)

安藤さん、拙著を本当に丁寧にお読みいただき、恐縮です。ご批判に、できるだけ簡潔にわかりやすくなるようお答えしたいと思います。

まず、労働法は出発点として、労働者と使用者という関係に立つ両当事者が展開する社会関係のうち、法的に問題をとらえうる領域を対象として、その合理的なコントロールを模索するという前提があります。そのうえで、いわゆる労働市場の動きについて妥当な範囲と方法で、法の適用対象となる人々が十全に能力を発揮して職を得ることができるようにすることを目的とした法的介入を行うことや、高齢者の生活を安定させるために職業生活からの引退過程をサポートすることなど、法学的方法で対応可能な領域を徐々に拡大しています。

要するに、労働法は労働関係をめぐる諸問題をすべて掌握して全的な解決をめざす、などということは前提としていません。労働法の守備範囲は、法的コントロールが可能な対象を限定したうえで、法の装置を用いた手法によって対応可能な問題を解決しようとするものだということであり、その自己限定は非常に明確です。

この前提から言えるのは、たとえば労働者と使用者との関係について対応する場合でも、労働法は、法的に見て発生することが一般的であるとみなせる問題を対象としてその解決をはかる装置を考えるという方法をとることになります。

たとえば、安藤さんが提示している例は、経済的なモデルケースとしてはおっしゃる通りのことが言えるでしょうが、実際の現場では、労働者も使用者も、提示されているような合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生します。 特に現在では、悪質なベンチャー企業も多く、2年だけ会社を立ち上げてその間全く長期的展望を持たずに徹底的に労働者を搾取しまくり(とりわけ今のような時代なら、2年程度はどれほど不合理に搾取されても黙って働く労働者を雇うことに事欠かないでしょう)、すみやかに会社をたたんでしまって一応の資金だけ得て、あとはあまり危ない橋をわたらずに会社経営を行う、ということは珍しくありません。

こうした事態が生じるのは、やはり総体としてみれば労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ないからであって、19世紀の工業国と21世紀の日本とで本質的な違い(雇われる立場の者が雇う立場の者に対して上限関係と支配関係に立つという事態の本質的な変化)は、少なくとも事実としては見えてこないのではないでしょうか。そして、そうだとすれば、雇用をめぐる社会関係において、事実として生じやすいトラブルを対象として一定の規制を加えることは合理的であろうと思います。

この観点から、具体的なご質問にお答えします。
まず、契約内容が使用者によって左右される、多くは使用者が一方的に決定することになる、とは一概にいえない、という点ですが、まさにおっしゃる通りです。労働法は、事実としてそのような事態(使用者による契約内容の一方的決定)が一般的に観察しうる限りで、必要な範囲で法の装置を用いた介入をしようということであり、実際に対等性が確保されている場合にはそれを尊重した対応をしています。具体的には、特に労働契約関係を対象として、契約内容が使用者によって一方的に決定されている場合に適用されるべきルールを作っています。
注意していただきたいのは、「労働関係においては使用者が労働者に対して労働契約内容を一方的に決定しているので規制する」のではなく、「使用者が労働者に対して一方的に契約を決定する立場に立っていると認められる場合には法的コントロールを行う」のです。

つまり、事実として、労働関係においては使用者が一方的に契約内容を決定する立場に立ちやすいということが認められるので、実際にそのような一方的決定がなされている場合に適用されるルールを作る、ということであって、労働関係であればいつでも使用者を規制する、というわけではありません。たとえば、まさに零細企業で労働者と使用者が実質的にも対等平等に労働契約を締結し、かつ内容の決定もしているとみられる場合は、結果的に通常の契約と同様の法的対応がなされます。

おそらく、誤解が生じやすいのは、労働基準法のような法律が労働者を保護する規定を置いているからだと思いますが、これも、労働者が労働関係において使用者の一方的な行為により人権や自由や健康や安全といった基本的権利を侵害される事態が事実として広範に生じてきたので、「使用者が実際にそのような行為をした場合には」規制するということにとどまります。

労働基準法の守備範囲は、命や健康など人間としての最低限の尊厳を侵されることを阻止しようとするだけで、そこまでいかなければ、かなり使用者が横暴であっても関知していません。 たとえば一日の労働時間は8時間を超えてはならないというのも、使用者が労働者を「働かせる」時間が8時間以内でなければならないと言っているだけであって、労働者が自由な意思で働く時間は全く規制されていません。人間が他者を命令によって労働させるという関係にあるとき、その労働時間を、命や健康が侵害されない範囲にとどめるよう法が規制するということに違和感があるでしょうか。

次に、労働力が売り惜しみできない、という点は、少し誤解があるようです。この意味は、骨董品と労働力を比べるとよくわかります。骨董品は、一般的には、売り惜しみしても価値が減じないだけでなく、むしろ高くなることが通常でしょう。しかし労働力は、使わなければどんどん劣化していく商品です(人間の体と頭に蓄積されたノウハウや勘や労働の活力は、使用されなければ失われるだけです)。確かに、他に買い手があればよいでしょうが、すみやかに見つからなければ劣化は進みます。つまり、「今売る」ことに価値があるので、労働者としては言い値で取引せざるを得ない状態に陥りやすいのです。

さらに、労働法は大企業か零細企業かという区別をかなりしてきました。最長労働時間を短縮するときも、10年間をかけて、大企業にはかなり早い段階で規制をかけ、中小企業や零細企業にはギリギリまで施行を延ばして十分に対応できるよう入念なサポートをしてきましたし、65歳までの雇用を義務付けている高年齢者雇用安定法も、中小企業については今年の3月末まで経過措置を設けていました。また、解雇などが訴訟になった折には、当該企業の規模や経済状況などを十分に考慮した判断枠組みにより結論が出されますので、実際に企業規模で不当な結果が生じるような法的事態はごく少ないはずです。

最後に、これは個人的な印象ですが、法学と経済学の相違の一つとして、法学は非常に自己を限定しているという点があると思います。以上に縷々述べましたように、労働法も、実際に労働者が使用者との関係で不当な事態を甘受させられることが多いという具体的現実から、帰納的に、「労働契約関係において生じうる不都合な事態を類型化し、実際にそのような事態が生じたおりには対応できる仕組みを整えておく」というスタンスをとっているのであり、非常に謙抑的です。 

法学者は、「法学がわかれば世界がわかる」などとは決して言いませんし、法学的理解をすべての社会現象に適用しようなどとも思っていません。 しかし経済学者の中には、確かに一定の層として、「経済がわかれば世界がわかる」、「社会現象は経済学を適用してほぼ解決の見通しがつく」と考えている向きがありますね。それは学問自体の性格の相違にもよるのかもしれませんが、なぜそうなのかが理解できれば、法学と経済学の、表面的ではない相互理解・相互協力も進むのではないかと思います。

読みにくい内容になったかもしれません。不明な点は遠慮なくご指摘ください。次回の議論を楽しみにしています。

2011年9月26日月曜日

じっくり議論していきましょう - 野川

安藤さん、拙著をそんなに丁寧に読んでいただいて本当に光栄です。ご指摘の点、私も丁寧に考えてお答えしていきたいと思います。 少しお時間をいただければ幸いです。

野川『新訂労働法』総論第1章「労働法の原理」について (安藤)

予告してから少し期間が空いてしまいましたが,野川忍著『新訂労働法』の勉強を始めます。その目的は,もちろん野川さんと喧嘩をすることではなく(笑),法学者と経済学者の共通理解を増やすことにあります。そのために,仮に私が野川さんの主張や結論に同意している場合でも,あえて批判的な検討を加えていくこともあります。ご承知置きください。

今回は,総論第1章について内容をまとめた上で,感想と疑問点を提示します。

本章では,労働法の背景にある基礎的な考え方が紹介されています。ここが分からないと,おそらくその後の応用問題は理解できないと思われるため,同意できるか否かは置いておいて,まずは野川さんの思考をトレースできるように丁寧に読み進めることにしました。

最初に第1章の概要をまとめておきます。ただしこれはあくまで概要ですので,できれば本文をご覧ください。

【総論第1章の概要】
使用者と労働者の間の雇用関係は,社会的な上下関係として認識されることがあります。しかし本来,雇用とは契約であり,対等・平等という契約の原則が雇用関係にも貫かれています。

ただし,このように雇用契約を一般的な契約と同等に扱うことにより,歴史的には多くの問題が発生しました。なぜでしょうか。それは,労働者側は自分が持つ労働力という商品を貯めておくことができず,交渉が成立しなければ何も得られないために,相手の譲歩を引き出すことが難しく,結果として雇う側と雇われる側に交渉力の格差が存在するからです。交渉力の格差が発生する原因としては,使用者側と労働者側に大きな経済的格差があることや,労働者は生身の自然人なので同時に多くの企業と交渉することが難しいことなども挙げられます。

そこで多くの国では,雇用契約における交渉力の不均衡を是正することを目的として,国家が契約内容に介入すること(例えば最低賃金法)や労働組合の結成を認めることになりました。

このように労使関係の不均衡とその是正を考えることが労働法の基本的な目的ですが,加えて時代の変化や労働者の多様化に応じた様々な施策が考えられてきました。高齢者雇用や男女平等などがその例として挙げられます。

労働法で扱う対象は,労働基準法や労働契約法のように実際に法律として定められているものだけではありません。法律の解釈を示す,法律の隙間を埋める,法文を一定程度補充するといった役割を果たす判例法理に加えて,労働契約,就業規則,労働協約,労使協定なども考察の対象となります。

労働法は,時代の変化を受けて変わりつつあります。究極的には個々の労働者の自立を目指して,法律を拡充することや,労働者協同組合やNPOなど多様化する働き方の整備をすることも必要でしょう。その背景にある考え方は,雇用社会が誰にでも平等に開かれていて(オープン),公正で(フェア),連帯の契機が保障されていなければならない(ソーシャル)という理念です。

【総論第1章の感想】
本章を読んで気になった点は,大きく分けて3つあります。

1,本章では,労使の交渉力が非対称であることが理由で歴史的に問題が発生したこと,そしてその問題を克服するために国家の介入と労働組合の結成が必要であることが説明されています。しかし労使の交渉力がなぜ非対称なのかについて挙げられている3つの説明が良く分かりませんでした。この点は後で別に扱います。

また交渉力の非対称により過去に問題があったとして,交渉力の非対称やそれに伴う問題は現在でも同じく存在するのでしょうか。例えばインターネット等の発達により労働者側が他の企業における待遇等の情報を得やすくなったことから,仮に交渉力の非対称が以前よりも減少しているとしたら,必要な対策の内容は変化することになります。そして国家による介入には弊害もあることを考えると,過去に問題があったから現在も変わらず介入が必要というだけでは正当化の根拠が不足しているように感じました。

なお,交渉力に違いがあることを前提として対策を考えるだけでなく,交渉力の差を縮めることを目的とする施策についても検討することは有益ですね。

2,すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活をおくることを政策目的としたときに,稼得能力の低い労働者や貧困等の問題を雇用関係の中だけで解決することはできません。これから労働市場に参加する若者や失業者,リタイアした高齢者や零細企業の経営者等,現在働いている労働者以外の人に関しても配慮が必要です。

労働問題を考える際に,このように現在雇われている労働者だけに限らずに社会全体への影響を考える視点は,すでに労働法学者と労働経済学者の間で共通のものになっていると言って良いでしょう。

本章では,どうも労働者対使用者という昔ながらの対立の構図が強調されすぎているように感じました。加えて,労使間だけでなく労働者同士の利害対立が近年より重要になっていることにも注意が必要だと思います。

3,本章では「当然である」といった表現が複数回出てきますが,これに違和感を覚えました。最初から野川さんと近い考え方を持っている人にとってはそれで良いのかもしれませんが,異なる意見の人を最初から排除しているように感じられるのです。

例えば「法人・組織と生身の個人が契約について中身を交渉して締結するとなれば,前者が有利に立つのは当然である」とありますが,本当でしょうか。これをすぐには納得できない人のためにも詳細な説明が必要でしょう。

また最後の「理念」についても,オープンは良いのですが,どのような状態がフェアかについては人により考え方が異なりますし,ソーシャルについては連帯を望まない人の存在をどのように考えるかが重要になると思われます。

これらの感想と要望は,おそらくないものねだりなのでしょう。労働法の基礎的な考え方を提示することが目的の本章で詳細な話はできないでしょうし,本書が法科大学院向けの教科書であることも簡潔に記述されている理由かもしれません。いずれにせよ,これから本書を読み進めることで,野川さんの考え方がより明確に見えてくるでしょう。

【同意できない,またはよく分からない点】
本章では「相手の思うままの契約内容を押し付けられる」とか「労働力という商品は,売り惜しみができない」といったような表現がありますが,これらは本当でしょうか。

1,まず「相手の思うままの契約内容を押し付けられる」についてです。

そもそも労使の間で労働契約が結ばれるのは取引の利益があるからです。そして特定の契約に労働者が参加するためには,現時点で選択可能な就職先の中で,他の企業で働くよりも当該企業における労働条件が相対的に良くなければなりません。

このように考えると,仮に交渉力に差があったとしても,労働条件はどこまでも切り下げられるわけではありません。経済学では,交渉の結果としてどのような労働条件になるのかは,双方が持つ代替的な選択肢から得られる満足度と交渉の際の我慢強さによって決まると考えることが一般的です。

例えばAさんがX社で働くとX社の利益が一年あたり800万円増加するのに対して,Y社で働く場合には400万円しか増えないというケースを考えてみましょう。このときAさんがX社で働く方が効率的だと言えます。そして両社がより良い条件を提示することでAさんのことを奪い合った結果,AさんはX社から少なくとも年収400万円を引き出すことができます。このようにAさんがX社と交渉する際には,この人が持つ代替的な機会(ここではY社の提示金額)が大きければ大きいほどより良い待遇を引き出すことが可能になります。

それではAさんがX社で働くことから発生する利益である800万円のうち,Aさんに最低限支払わないといけない400万円を引いた残りの400万円はどちらのものになるのでしょうか。これは交渉のやり方や交渉時の双方の我慢強さなどに影響されますが,資産が多いなどの理由であせって交渉をまとめる必要が無い側,つまり我慢強い側がより多くを得られることになります。おそらく労働者と使用者を比較した場合には後者の方が我慢強いと考えても良いでしょう。しかし極端なケースとして,仮に残りのすべてを使用者側が受け取ると考えたとしても,労働者側が最低賃金相当額しか受け取れないことにはなりません。そのような場合でも少なくとも400万円は得られるのです。

非常に簡略化した交渉過程を用いて説明しましたが,ここで言いたかったことは,「相手に思うままの契約内容を押し付けられる」といった表現を用いてしまうと,これを読んだ人が搾取する使用者と可哀想な労働者といった対立の構図に過度に捕われてしまう可能性があり,それは読者のためにならないということです。

2,続いて「労働力という商品は,売り惜しみすることができない」についてです。

ここではまず労働力は本当に売り惜しみできないのかについて,また使用者側は売り惜しみができるのかについて考えてみましょう。

まず「労働力は,売らないでおけばそのまま消滅するだけである」とありますが,これは一度に一つの企業としか交渉ができないこと,また交渉期間中に短期的な仕事を探すことができないことを暗黙のうちに仮定しています。

しかし求職者側は,交渉期間の間は日雇い労働など別の手段でお金を稼ぐことも可能です。特定の企業との交渉に時間がかかったり,契約が結ばれなかったりしたとしても,それにより直ちに収入が失われるとは限りません。

次に使用者側のことを考えてみましょう。

まず,通常は使用者側が持つ機械設備や原材料費など(これを資本といいます)と労働者の労働力が揃った時にはじめて収益が発生することに注意してください。よって使用者側にとっても求職者と合意できなければ,その人を雇うことができたら得られたはずの収益を手に入れられないことになります。

ここで仮に使用者側が資本を現金で持っているなら,預金しておくことができますね。しかし預金しておくよりも生産活動に使った方が収益は当然大きいはずです。そうでなければ,この使用者はそもそも人を採用しようなどとは考えません。

このように労働者側にとっても使用者側にとっても,契約が成立しなかった場合には自分の持つ労働力や資本を次善の方法で活用することになります。よって契約交渉時に,労働者側だけが一方的に「売り惜しみすることができない」という主張は成り立ちません。

またここでは資本が現金の形で所有されている場合を考えましたが,これが工場や機械などの形で保有されている場合には,他社へ貸し出すことや他の使途に用いることが難しければ,使用者側は契約が成立するまでの間は何も得られない可能性もあるのです。

3,最後に指摘したいのは,労使間の交渉力の格差を理由として国家による労働者の保護や労働組合の役割を正当化することは,そもそも考え方として問題があるのではないかという点です。

本章では,交渉力の非対称の原因として(1)労働力という商品は貯蓄できないこと,(2)使用者側と労働者側に大きな経済的格差があること,(3)労働者は生身の自然人なので同時に多くの企業と交渉することが難しいことなどが挙げられています。これらが理由であるなら,1人の使用者が1人の労働者を雇うような零細企業と大企業とでは,正当化できる労働者保護の内容や程度が変わってくるように思われます。なぜなら零細企業の場合には,(2)については労使の経済的格差は小さく,(3)については同時交渉の難しさについても大企業と比べて労使間の差異が小さいからです。

このとき例えば大企業では労働組合の結成が正当化されるが中小零細企業では正当化の根拠が相対的に弱いといったことにならないでしょうか。

また反対に,仮に同様の仕事をしていたとしても,現実には大企業で働く労働者の方が待遇が良い可能性を考えると,働き方の最低水準を定めるという趣旨からは,逆に零細企業では国家による保護や組合の結成を認めるべきだが大企業では必要性の程度が低いということにはならないでしょうか。

「同意できない,またはよく分からない点」として挙げた3点に関して,1と2については私の主張をどのように評価されるか,また3については労働法による保護の根拠は,大企業と零細企業とで同じであるべきか否かについて考え方を教えて頂ければ有り難いです。

どうぞよろしくお願いします。

2011年9月6日火曜日

野川忍著『新訂労働法』商事法務2010 (安藤)

すっかり間が空いてしまい申し訳ありません。このBlogで次に何を書こうか迷っているうちに時間が経ってしまいました。

さて次回の投稿から少しの間は,野川さんの執筆した『新訂労働法』(商事法務2010)を勉強してみようかと考えています。せっかく著者とのやり取りができる環境なので,まずは分からないところや納得のいかないところを質問したいと思います。また経済学の立場から補完的・代替的な説明が可能である場合には,できるだけ丁寧に紹介します。

まずは総論の第1章を扱います。おそらく初回は今週末に書き込みますので,関心をお持ちの方はぜひ『新訂労働法』をお買い求めください。(←営業協力!)

2011年6月15日水曜日

震災後労働法制のあり方について(野川)

長い間ご無沙汰してしまいました。

大震災のあと、世界はすっかり様がわりしてしまい、雇用と労働をめぐる議論にも大きな影響があったことは間違いありません。

「この事態の中で、自分にできることは何か」という疑問を、ほとんどの人々が突き付けられ、それぞれの場で行動されました。私は労働法研究者の末席を汚しているので、当初の衝撃から立ち直ってすぐに、ただちに続発するであろう労働問題に対してどのような法的対応ができるのかについて基本的なハンドブックをつくろうと考え、二か月ほどはそれにかかりきりでした。

今般、緊急出版の形で刊行された「Q&A 震災と雇用問題」(商事法務)では、厚労省や各自治体や労使団体等に寄せられている具体的な疑問や質問を集め、加えて今後想定される労働条件の変更や人事システムの改革などを見据えて、そこで起こるであろう諸課題への一応の解答を示したつもりです。

この本を執筆するなかで絶えず頭の中を支配していたのは、 短期的問題、中期的問題、長期的課題のいずれについても前提となるべき原則は何であるべきか、ということでした。事態があまりにも規模が大きく、また深刻である場合、当座の問題を処理するだけで膨大なエネルギーが必要となるため、ともすれば将来への展望をともなった対応にまで準備が及ばないことがあります。しかし、そのような歴史的苦境を前にしたときには、まずは土台となる原則を踏まえ、そのうえで時間の経過とともに段階的に基本準則を確認し、それぞれの現場ではできるだけ具体的で適切な状況対応をする、というのが常道であろうと思います。
今回の震災とそこから生じる今後数十年にわたる諸課題への対応を考えるとき、少なくとも労働問題 については、以下のような段取りで検討を行うことが必要ではないでしょうか。

まず土台となる原則としては、「労使対等原則による協働」という理念があげられるでしょう。これは通時的にも共時的にも普遍的な労働世界の基本理念であり、平時はもちろんのこと、非常時であっても、いや、見方によっては非常時であればなおさら堅持すべき理念であると言えます。「緊急事態では使用者の専権によって事態を乗り切る」という発想になりがちな日本では特に強調されるべきであろうと思います。

つぎに、復旧から復興への移行段階では、災害特例のような形で次々と発せられた行政の特別措置を十全に活用し、今後必要な新たな雇用の創出、労働保険・社会保険のリニューアル、労使関係の再構築等をすみやかに効果的に実現することが優先されるべきでしょう。そのためには、労働法制についても、時限法なども視野においた新制度・新ルールの定立が急がれます。政府は、規則や通達や指針を整理して、国としてめざす方向性を国民にわかりやすく明確に示すことが必要です。

そして、将来も起こりうる大災害、突発的で巨大な労働市場の混乱といった事態を想定して 多くの企業で行われるであろう制度変更については、労働協約、就業規則、個別労働契約による対応それぞれについて、労働条件の不利益変更や使用者の裁量の大幅な拡大が許される基準や限界を確認し、労使関係の強化・助成をどのように具体化させるかを早急に検討すべきであろうと思います。

以上は包括的な前提ですが、今後は個別の課題について、さらに詳細で明確な検討が行われるべきであることは言うまでもありません。

2011年5月2日月曜日

最賃制に関するコメント(間奏曲)ー野川

安藤さんとツイッター上で交わしたちょっとした議論について、ハマちゃんこと濱口桂一郎先生がコメントを下さり、憲法論としては安藤さんが正しいとジャッジして下さったので、「?」と思ったところ、どうも私のツイッター上での言葉が足りなかったことを発見しました。そこで、今回は間奏曲としてこの点を簡単に述べておきます。

ツイッターでは、「条文を読むなら法律で決めるとだけあるので,最低賃金を設定しなければならないとか,それをゼロより大きくしないといけないとは読めない」との安藤さんのご指摘に対して 「憲法27条2項の趣旨は、同25条を受けて、「労働者が健康で文化的な最低限度の生活をできる労働条件の水準を法律で直接に定める」ということなので、実質的に生活していける賃金の最低水準について定めた最低賃金法を撤廃する法令は違憲となります。」と書き、そのすぐ後に「もちろん、賃金の最低水準を確保したうえでその決定方式や手続きを合理化するために最低賃金法に代えてもっと適切な法令を制定する、ということはできます。」と付け加えたことがポイントだったのですが、この点をもう少し説明すべきでした。

つまり、そのあと安藤さんが「労働条件には安全衛生とか様々な要素があり,必要な内容については適切に定めることが求められているだけだとは解釈できませんか?」とご質問されたことについて、すぐ「確かにそうですが、たとえば最賃制度について、現行最賃法を撤廃し、今後最賃を法で定めることはしないとすることはできません」 というお応えをすべきところ、「まとめると、憲法27条2項は労働条件の最低基準は法で定めることとしているー労働条件と は賃金を中心として本来労働契約で合意されて決まる事項であるーそこで賃金をはじめとする労働条件については法で最低基準を明記しなければならないー最低 賃金法はその典型である、ということです。」とまとめたので、十分に意図が通じなかったのかもしれませんね。

あらためて憲法27条2項と最賃法の関係を記しておきますと、まず、憲法27条2項の趣旨である「労働条件の最低基準は法律で定める」ということを体現した具体的法規の一つが最賃法であることは異論のないところです。 これに対して、「最低賃金法は撤廃すべきだ」という意見があったとした場合、「それが、現行最賃法に代えてもっと適切な最賃制度を定めるべきということであるならば問題ないが、そもそも最賃制度を法で定めること自体を認めないというのであれば、そのような法令(「最賃制度を法では定めない」という法令)は違憲となる」ということです。

ただ、これもツイッターで少し議論しましたが、労働者の生活水準が全体として保障されるのであれば最賃にこだわることはないのではないか、という安藤さんのご指摘は、最賃制をもっと柔軟に運用すべきだという趣旨としては、私も否定していません。こうした構想を、現行憲法と整合性をもって実現しようとすれば、最賃制度の必要性を否定するのではなく、その具体的運用の在り方として、最賃の額は他の給付(ベーシック・インカムもその候補の一つかもしれません)とリンクさせて決定するという法改正は考えられると思います。

次回は、本筋に戻りたいと思います。

2011年4月16日土曜日

被災労働者へのサポート (安藤)

前回の投稿で私は,今回の震災により仕事を失った方々が今後取り得る選択肢を以下のように四分類しました。
  1. 復興とともに,現地で再び同じ仕事に就くこと,
  2. 震災を機に住む土地を変えて,同じ仕事を続けること,
  3. 現地において別の仕事に就くこと,
  4. そして他の地域へ移住し,別の仕事に就くこと
野村総研の推計(http://www.nri.co.jp/news/2011/110408_2.html)によれば,被災地域における被雇用者77.3万人のうちで,震災1年後に現地で同じ仕事に就くことができるのは71.4万人で,また震災6年後には67.8万人になると予想されています。つまり,それ以外の人々は,仕事を変えるか地域外への転出を余儀なくされるのです。これは6年後には,10万人近い労働者が地域間,または産業間で移動することを意味しています。

加えて東京電力の原子力発電所事故により対象地域から避難している労働者や,電力使用抑制に伴い今後発生する失業者のことも考える必要がありますね。

これら広い意味での被災労働者は,今後どのように職探しをすれば良いのでしょうか。またその支援はどのように行えば良いのでしょうか。短期と中期,そして長期に分けて考えてみましょう。

【1,短期】
被災地域に住み続ける労働者にとっては,復興活動が始まるまでは職探しが非常に厳しい状態が続くでしょう。そこで現在,瓦礫の撤去やその支援,また避難所での活動などに対して賃金を支払うCash for Workと呼ばれる取り組みに注目が集まっています(詳細はhttp://cfwjapan.com/home/をご覧ください)。

この取り組みの目的は,現在職がない被災労働者を安く使える労働力として活用することなどではありません。これは仕事が見つかるまでの間のつなぎの稼得手段として確かに有効ですが,それ以上に多くの被災者に働く場をもたらす点が重要です。生活に必要な資金を義捐金等として提供することだけでなく,働ける人に対して仕事を作ることは,個人の尊厳の面からも生活習慣や技能の維持の面からも意義のあることだと考えられます。

報道によると,農林水産省が漁港の瓦礫の撤去作業に対して,日当1万2100円を支払う方針が決まったようです。Cash for Workは既にこのように動き出している試みですが,今後はさらに多様な活動への賃金支払いへと拡充することが必要でしょう。

その際に重要なのは,被災者間の平等や精緻な制度設計を考えるあまりに,実際の雇用がなかなか実現しないという事態をもたらさないことです。出来るところから始めることが求められます。

【2,中期】
中期では復興需要があるため,土木建築関係とその周辺分野等で雇用が発生します。ただしこれが一時的なものであることには注意する必要があります。復興に目処がついた時点で仕事が減ることに備えて,事前のキャリア転換支援が必要でしょう。なぜなら復興後に震災前の仕事に戻る等の選択もありえますが,一方で従来の仕事に戻ることが難しい場合もあるからです。

そのためにはどのような施策が有効でしょうか。例えば,ある労働者を公共事業で雇用する場合には,すべての時間を建設作業に従事させるのではなく,労働者のキャリア形成を考慮した教育訓練と組み合わせる形で賃金を支払うことなどが考えられます。それにより復興後に就労が途切れるリスクが減り,労働者にとっても有益ですし,また社会全体にとっても適切な労働者支援をより安価に実現できるからです。

この点に関しては,以前執筆したNIRA研究報告書の担当部分において同趣旨の提案をしているので参考にして頂ければと思います(http://www.nira.or.jp/pdf/0901ando.pdf,p.49)。

【3,長期】
[3−1,労使マッチングの仲介]
長期には,元の仕事に戻る人もいれば,別の仕事に就く人もいるでしょう。別の地域で職探しをすることや別の職種への移動をスムーズに行うためには,外部労働市場が十分に整備されている必要があります。

それでは外部労働市場が整備されているとはどのような状況を指すのでしょうか。それは(1)様々な職種において求職者と求人数がそれなりの規模で存在し,(2)現時点での能力や適性といった労働者側の資質や経営状態や労働環境などの使用者側の性質などがある程度は明確になっていて,(3)相手探しや交渉,また契約を低コストで円滑に実現できる状態を指しています。

これまでわが国では,大企業のホワイトカラー労働者を中心として内部労働市場が発達している代わりに,外部労働市場があまり整備されていないと考えられていました。しかし実際には,中小企業では転職も多く,知人の紹介や求人広告など様々な手法を活用して労使のマッチングが行われていたのです。

被災労働者に関しては,これまでの中小企業における転職とは異なり,働く地域を移動することや職種を変更することも考える必要があるため,ハローワークや有料職業紹介事業者による就職支援の必要性がさらに高くなると予想されます。

その際には労使のマッチングは,労働者の過去の経験や今後の教育訓練などにより,マッチングから生み出される価値が人により大きく異なること,そして時間を通じて変化することにも配慮が必要です。前掲報告書のp.48でも述べていますが,キャリア転換の成功事例をデータベース化し,転職支援に用いることなどは有効かもしれません。

また単に就労支援をするというだけでなく,キャリア形成の支援という視点も重要でしょう。例えば食品などの消費財の製品開発をやりたいと未経験者が主張しても,いきなり希望する職に就くのは難しいはずです。そのような場合に,支援する側が,現状では無理だと言うことを説明した上で,当人のこれまでのキャリアと能力そして適性を勘案し,「一度小売業の販売の仕事をしてみてはどうか」などとアドバイスするなど,支援サービスを利用するからこそ今後ののキャリアの展望が開けるといった要素もあるはずです。

[3−2,仲介の官民分担]
また就職支援については官民の役割分担についても考える必要があります。限られたハローワークの資源を有効活用するためにも,民間事業者のさらなる活用が求められます。民間で出来ることは民間に任せて,採算が合わないと民間企業が考える領域にこそ政府の出番があると考えるべきでしょう。

また有料職業紹介を行う事業者は,原則として労働者側からは手数料を取ることが出来ず,採用する側が手数料を支払うことになっているのですが,例えば被災者に限ってはその手数料を国が負担することなどを考えても良いでしょう(有料職業紹介事業者が受け取ることが出来る手数料については,例えばhttp://www.mhlw.go.jp/general/seido/anteikyoku/manual2/dl/10.pdfをご覧ください)。

ただし雇用契約の成約件数に応じて手数料が支払われると,雇用関係が長続きするかどうかをあまり考えずに安易なマッチングが行われる恐れもあるため,採用後1年間といったように一定期間雇用が継続したことを条件として対価が支給されるといった方策を考えることも効果的かもしれません。

多様な論点を列挙してしまったために分かりにくいかもしれませんが,とりあえず今考えていることをまとめてみました。野川さんに異論があればご指摘ください。また,より具体的に検討すべき事項があれば,どの点を重要と考えるか教えて頂ければと思います。

2011年4月5日火曜日

衝撃に絶えうる労働市場の整備 (野川)

安藤さんも指摘されている通り、3月11日を境に、日本は一変してしまいました。もちろん、だからと言ってこれまで検討してきた問題が看過されてよいということにはなりませんが、やはり新しい状況に対して私たちなりにきちんと対応する必要があると思います。整理解雇や、ひいては労働者の置かれた実情を踏まえた上での労働市場の活性化の在り方について検討してきたこれまでの検討については、また再開する機会を考えましょう。

今回の大震災で、直接間接に職場を失い、生活にも困窮している方々は少なくありません。さまざまな支援が不可欠だと思いますが、まずは被災者が働く場をどのように確保するかが我々の持ち場における課題でしょう。

安藤さんは、 今こそ外部労働市場の整備を急ぐべきであるとしておられますが、そこで指摘されている内容は私も全面的に賛成です。そこで、私なりにコメントを加えておきます。

安藤さんが、被災者が新たに職に就くとして考えられるケースを四つに区分されていますが、このうち、 1.復興とともに,現地で再び同じ仕事に就くこと という選択肢については、復興のスピードや具体的内容(崩壊した産業がそのまま復活するのか、また復活させる政策対応をするのか、等)によりある程度決まってくると思いますが、それ以外は、マッチングのための相当思い切った仕組みが必要なように思います。

私は、最大のポイントは、現地の復興そのものについて被災者の就労を後押しする制度を構築することと、被災労働者が職業訓練を受けたり職業紹介を受ける場合のクーポンのような制度を検討することだと思います。そして、現在整備されつつある求職者支援制度の中に、特別措置として被災労働者のための給付と職業訓練への紹介を優先的に行い、速やかな職業転換をはかることが不可欠でしょう。

ただ、これにはさらに検討しなければならない課題があります。一つは、こうした応急処置にとどまらず、今回の事態を踏まえて、外部的かつ突発的な衝撃にも一定程度耐えうるような労働市場をどう構築するかということです。それには、いっそう弾力的で労働者に不安を与えることの少ない制度的整備とともに、前回私がチラッと提示した解雇の金銭解決制度を検討しうるような転職市場の拡充などが急務となるように思います。またもう一つは、被災労働者のための特別措置を考えるとき、それが「被災使用者」の現状に鑑みてどれほど実効性があるかを検討すること。実際には、失われた職場そのものの再創出のためには、速やかな産業復興が中心的課題となることは間違いありませんから、そのことと被災労働者へのサポートとの有機的な連携が大きなポイントとなるように思います。

また安藤さんのご意見をうかがって、少し掘り下げた検討もしていきたいと思います。

2011年3月25日金曜日

東北関東大震災と外部労働市場 (安藤)

前回の野川さんの投稿から3週間も空いてしまいましたが,そろそろ再開したいと思います。本当は3月11日に更新するつもりだったのですが,当日に東北関東大震災という大きな事件があったために遅くなってしまいました。

本日はこの震災に伴う労働問題について考えたいのですが,その前に前回の復習です。

私が投げかけた(1)大企業と中小企業とを分けて検討する必要がありませんか,という点と(2)仮に外部労働市場の整備を先に行うとしたら,どのようなプロセスが考えられますかという二点の質問に対して,野川さんから頂いた回答を私なりにまとめると以下のようになります。

まず先に中小企業に対して「守れる契約にする代わりに守らせる」ことを私が考えていたのに対して,野川さんは,雇用関係が契約であるということが理解されていないのが現状であり,契約の明確化を要請しても大企業では普及するかもしれないが中小企業では難しいと考えているようです。その上で,まずは大企業から順に浸透させることが現実的だという見解だと理解しました。

次に外部労働市場の整備をどのように実現するのかについては,野川さんは「新卒定期採用の相対化」と「横断的職業能力の指標を充実させること」により,少しずつ進んでいる外部労働市場の整備をさらに進めることができると考えています。加えて「解雇の金銭解決制度」の導入についても一定の理解を示していますね。

これまで私は,明文化された契約が結ばれるようにすることが先であり,また履行可能な契約の締結とその保護を重視すべきだと考えてきました。しかし3月11日に発生した東北関東大震災により,家と仕事の両方を同時に失った方が多数いらっしゃることを考えると,今こそ外部労働市場の整備が必要だと考えるようになりました。

その理由は以下の通りです。

まず,仕事を失った方にとって,今後取り得る選択肢は以下のように分類できます。

  1. 復興とともに,現地で再び同じ仕事に就くこと,
  2. 震災を機に住む土地を変えて,同じ仕事を続けること,
  3. 現地において別の仕事に就くこと,
  4. そして他の地域へ移住し,別の仕事に就くことです。

例えばこれまで漁業に従事してきた労働者が,現地で漁業を続けることもあるでしょうが,後継者がいなくて困っている他地域に転居して漁業に従事することもあるでしょう。また現地で建設業に就くことも考えられますし,家族や知り合いがいる別の土地で別の仕事を探すこともあり得ます。

今回のような大規模な災害に伴い多くの仕事が失われたことを考えると,仕事を変えざるを得ない人も多いと思われます。そして仕事を変える際には,新たな職場とのマッチングや技能習得が必要となるでしょう。

このように不可避的にキャリアの変更を必要とする方が多数存在することを考えると,外部労働市場が充実していることが求められます。その際には,これまでの就労経験に応じて,どのような職種への転身が上手くいくかなどの情報が適切に提供されること等も求められます。

これまで野川さんと私は主に整理解雇に注目して議論を進めてきましたが,このあたりで一度話を変えても良いのではないかと考えました。そこで前回までの外部労働市場についての話をさらに進めて,被災者の今後の働き方について考えてみたいと思うのですがいかがでしょうか。特に労働者のキャリア転換や移住などの可能性を考えて,外部労働市場の機能を整理し理解しておくことは有用かと思います。

被災地における,また被災者にとっての新たな雇用を考える際には,野川さんの言うところの「日本の企業社会にまだまだ根付いている身分社会的慣行」や,「閉鎖的な労働市場」の問題にも注目する必要があるでしょう。この問題について,もう少し考えてみるつもりです。

2011年3月10日木曜日

お知らせ (安藤)

少し間があいてしまっていますが、明日にでも更新します。

2011年3月1日火曜日

契約社会実現のためには外部労働市場整備が優先ではないか(野川)

月があらたまり、弥生三月、春うらら、本来なら心浮き立つ季節なのに、未だに就職が決まらない大学生、適正なサポートもなく増大する非正規労働者、政治の混乱のために一歩も進まない労働法制の改革・・・ と、雇用や労働の世界には桜の芽も見えない状況が続いています。

嘆き節を披歴しても始まりませんが、国際比較において日本の高校生が劇的に自己評価が低いといった統計も併せ考えると、働いて身を立てようというまっとうな人生設計がこれだけダメージを受けている現状は、本当に最優先に改善のための取り組みが必要ですね。

さて、安藤さんのご質問は、 大企業と中小企業との区別の必要性と、外部労働市場の整備についての具体的な処方箋でした。まず、前者については、もちろんこの相違は非常に大きくて、労働法の世界でも、大企業ではかなり複雑な労基法上の制度(変型労働時間制や裁量労働制など、法律を読んだだけでは全く理解不能です)でもきちんと取り組んでいることが珍しくないのに対し、中小企業では「独自の慣行」が中心で、法のコントロールはなかなか定着しないとよく言われます。

しかし、このような状況においては、「契約の明確化」という要請を何らかの形で規範化して普及させようとする場合でも、同様な問題を生じさせるのではないでしょうか。つまり、大企業では形式的にはとりあえず順調に普及しても、中小企業ではかえって負担であると受け止められて実際は忌避されるということになりかねないように思います。なぜなら、欧米諸国において契約による雇用関係の成立・展開が定着しているのは、人々の経済的・社会的関係は契約によって成り立つ、という了解が生活実感として形成されていて、雇用についてもそれが通用しているからであって企業の大小によって大きな違いはないのに対し、日本ではまだまだそうではないからです。そして、大企業でさえ、雇用が契約であるという実感を阻害するような人事制度がこれだけ強固である限り、実質をともなった契約は普及しないと思います。
たとえば、最近注目されているNPO法人PSSEが発行している「POSSE」10号では、就活が学生にとってこれほど多大なエネルギーと時間を浪費させられるのは、求められているのが資格や学位や成績など客観的な指標ではなく、「○○力」だの「○○性」などという曖昧な基準による評価なので、結局学生は企業に認めてもらうための「面接テクニック」や「自己アピールスキル」の会得に追われてしまうのが一つの要因である、という指摘がされていますが、こんな就活を経験すれば、雇用が対等当事者の契約であるなどという認識は生まれないでしょう。

むしろ私が注目するのは、企業社会のツリー構造です。どういうことかというと、確かに大企業と中小企業の相違はありますが、他方で、(良し悪しは別として)大企業の人事システムがある方向に動くと、連動して中小企業もある程度それに追随するという傾向が見られるということです。ご案内の通り、日本の企業社会は「みずほ」「三菱東京UFJ」「三井住友」の三大メガバンクグループなどに象徴されるように、ゆるやかなピラミッド型、あるいはクリスマスツリー型の構造をなしていて、中核となる大企業のガバナンス方式の変更がグループ内および関連する企業群に影響していきます。
厚労省が大企業を中心に行政指導などを通じて新しい雇用ルールを実践させようとするのはこの点に大きな理由があって、そうすることでツリー構造を通じた広範な広がりを期待している節があります。

したがって、整理解雇についての四要素や労働条件の柔軟な変更を、労働者の利益とのバランスを取りつつ実行するという手法も、きわめて不十分ではあっても、大企業に定着していることで中小企業にも曲りなりにも「意識」はされているように思います。今のところは、これをさらに合理化することに留意しつつ、他方で、契約が定着しうる社会への変化を早める努力がなされるべきだと思います。

次に外部労働市場の整備は、少しずつ進んでいますが、いくつか乗り越えなければならない障壁がありますね。一つは、今なお強固な新卒定期採用システムで、これを相対化して、既卒と新卒が対等にエントリーできる仕組みにする必要があります。 他の先進諸国では、在学中から就職活動を始める学生は平均して4割程度ですが、これに近づけるために、現在模索されている「卒業後3年間は新卒扱い」や「9月採用の拡大」などを契機として、新卒定期採用の相対化を実現することが必要だと思います。もう一つは横断的職業能力の指標を充実させることです。実際には、現在転職する労働者は増加傾向にありますが、横断的な職業能力評価の指標が貧しいので一挙に転職市場を拡大することにつながらない。職の個別化は進んでいるので、ホワイトカラーの職業能力を客観化する指標の形成を急ぐなどにより、この方向を進める必要があるでしょう。もちろん、当該企業でしか通用しない能力がプロモーションの基準となっているようなこれまでの慣行を崩すことも課題となります。
三つ目が、非常にデリケートなテーマである「解雇の金銭解決制度」です。私は、現在の段階でただちにこれを導入することは反対です。しかし、ある程度外部労働市場の整備が進んだ将来には、解雇に直面した労働者が、自分を切り捨てた使用者にすがりつくようなことをしなくてすむ制度、むしろ「こちらから願い下げだ! ただ、自分を切り捨てた代償は安くないぜ」として高額の転職費用を絞り取れる制度がある方が望ましいと思います。もちろん、制度の出発点としては、解雇が違法である場合の解決手段の「選択肢」として検討すべきです。

また長くなりました。私としては、以上のような理由でやはり優先順位としては外部労働市場の整備が重視されるべきだと思っています。 
安藤さんには、 契約化への具体的段取りとともに、日本の企業社会にまだまだ根付いている身分社会的慣行や、国際的にみればずいぶん閉鎖的な労働市場についてのお考えをお聞きしたいですね。

2011年2月25日金曜日

鶏が先か卵が先か (安藤)

これまでの議論を整理して頂き,ありがとうございました。私が最も大事だと考えているのは,まさに「今後労働者と企業との関係は総じてどうあれば当事者にとっても社会全体にとっても適切か」という問題です。

これまで検討してきた個別契約の明確化に対して,野川さんは「柔軟な対応の障壁となる」ため,現状では活用されないだろうと予想されていますね。そして「優先して取り組むべきは、転職が大きな打撃とならないような労働市場をどう構築するか、労働者の職業能力の普遍化をどう確立するか」とも述べられています。

しかし私は,契約の明確化と外部労働市場の整備とは「鶏と卵のどちらが先か」という議論のようにも思えるが,やはり明確化が先ではないかと考えています。

まず私が契約の明確化を導入しても問題ないだけでなく,実際に使われるだろうと考えている理由を以下に挙げます。

  1. 契約を明確化しても,これは柔軟な対応を妨げるものではありません。契約ベースにするということは,詳細な契約を結ぶことの強制ではないのです。「柔軟な対応」をしたければ明記する範囲を減らして,事後的な交渉と信義則に任せる領域を増やせば良いでしょう。例えば「場合によっては整理解雇が必要になるかもしれませんが,雇用はできる限り守ります。ただし仕事内容の変更や勤務地の変更などは受け入れてもらいます」という,これまでの正規雇用に相当する契約も当然締結可能です。
  2. 私は「使用者の判断によって労働条件や処遇や労働者の地位を変更して何とか解雇の可能性は低下させられる、という労使の思惑が普及している」のは実質的には大企業だけで,中小企業では普及していないと考えています。そして中小では解雇や転職が比較的頻繁に行われているのなら,契約の多様化と明確化により,これまでの保護が弱い無期契約とは異なり,守れる契約にする代わりに守らせることが可能になるのではないかとも考えています。

以上のことに加えて,新規に無期契約を結んだ場合には,これまでと同じく「これは定年までの長期雇用とみなす」が,さらに解雇権濫用法理と整理解雇法理を厳格に適用するとしてはどうでしょうか。これまで大企業と中小企業とでは裁判所が要求する実質的な労働者保護の水準が異なっていたようですが,今後は多様な選択肢を許す代わりに,長期雇用を結んだのなら守るべきという面を強調するのです。それにより,期間の定めのある中期雇用が,中小企業から順に実現していくように思われます。

私は,転職市場が充実してから契約を明確にするというのは現実的ではないと考えています。それは現在のような二極化した雇用形態を維持したままで,外部労働市場の整備を先に行うことが難しいと考えているからです。

よって私からは,(1)大企業と中小企業とを分けて検討する必要がありませんか,という点と(2)仮に外部労働市場の整備を先に行うとしたら,どのようなプロセスが考えられるのでしょうかという二点を野川さんにお尋ねしたいと思います。

本日はここまでにして,整理解雇の四要素に代わる裁判所の判断基準や労働契約が「身分契約」だと認識されているという論点については,別に議論しましょう。

2011年2月19日土曜日

契約による対応の困難さについて (野川)

まず、もう一度我々が何を議論しているのかを確認したいと思います。

発端は、「正規社員は既得権者なのか?」という安藤さんの問題提起でした。安藤さんは、私の理解によれば「正社員は確かに既得権を有しているが、それは十分に合理的な理由のあることであって、それを奪うには原則として意を尽くし た説明と合意形成が必要であり、それもかなわないときは一定の対価の支払いが保証されるべき」という見解を述べられ、私がそれに対して、正社員という法的地位はなく、企業社会の慣行によって、雇用保障も高い処遇も享受できるような「正社員」と不安定雇用と低い処遇に置かれている非正規従業員がいるのであり、パート労働者が正社員の上司になっても有期雇用労働者が正社員より実際上雇用の安定が保証されても、それはまさに契約の自由であることを示しました。そして、現在の「慣行」は、正社員に負わされる過大な責務(雇用保障や一定の高い処遇と引き換えに強大な人事権への屈従を承認し、過酷な長時間労働や遠隔地配転にも応じるなど)を内容として、まさに契約の自由という原則を通じて成り立っていることを指摘したのです。

議論が具体化したのはそこから先で、正社員が一定の雇用保障を享受するのはそれなりの合理的理由があるとした場合、整理解雇が許されるのはどうしてか、という課題を検討すべきであると安藤さんから提起がありました。そこから、整理解雇とは何か、またこれについて適正なルールはどうあるべきか、という議論に移っていきました。

そこで、今回は、当初の我々の問題意識を再確認して、それを踏まえながら当面の問題である整理解雇について、安藤さんの直近のご意見への私の考えを述べたいと思います。

私たちの問題意識は、(もしズレていたら訂正お願いします)「正社員という『事実上の』既得権が正当化される根拠は何か、それは合理的か、また今後労働者と企業との関係は総じてどうあれば当事者にとっても社会全体にとっても適切か」ということではないかと思います。そして今までのところ、企業は企業利益の観点から、長期雇用を保障しつつ十全に労働力を発揮して企業利益に貢献してくれる正社員という地位を維持しているのだ、という共通認識があるように思います。。

この観点からすると、整理解雇とは、主として企業の経営判断によって労働者との労働契約を一方的に解約することを意味するので、企業が正社員に対して長期雇用を保障することで多大な企業利益を得てきている以上、 人員整理が必要な事態であると企業が判断しても、そう簡単に解雇することは約束違反であり、何らかの明確なルールが必要であるということになります。

やっと前回までの議論にたどり着きました、迂遠ですみません。安藤さんは、 「契約にもとづく長期雇用保障は本当に利用されないのか」というタイトルで、私の意見について二つのご指摘をしておられます。

一つは、雇用期間や職種をいろいろ組み合わせた多彩な労働契約のメニューを用意し、その中で長期雇用保障を明記すれば、整理解雇の可能性やその範囲等について予見可能性があるので、契約にもとづく長期雇用保障システムを導入すべきである」という安藤さんの意見を「現実的でない」と批判した私の考えに対する疑問でした。
安藤さんの疑問を私なりに理解しますと、「なぜ現実にそのような多彩な契約が普及しないのか、それは普及を試みることが無駄ということなのか、それともただ実際には普及していないということなのか、もし前者ならば普及の可能性をなお追求すべきではないか」ということだと思います。

私が「現実的でない」と指摘した背後には、企業も労働者も、明確な契約を「柔軟な対応の障壁となる」「契約内容に拘束されるのは得策ではない」と考えているのではないか、という想定があります。
つまり、日本で失業率がかなり低いのが当たり前と認識されていますが(御承知の通り、ドイツでは8%を下回ればまあまあ合格ですが、日本では6%を上回ったら深刻な事態と受け止められるでしょう)、低い失業率の理由の一つとして、労働契約が締結された当初は予定していなかった事態が生じて大幅な事業再編の必要性に直面しても、使用者の判断によって労働条件や処遇や労働者の地位を変更して何とか解雇の可能性は低下させられる、という労使の思惑が普及していることがあるように思うのです。 見方を変えれば、かくまでに労働者は「現在所属している企業からの離脱」に強い恐怖心を抱いているし、使用者も、労働者に「経営上の必要性があっても解雇まではしない」と信じさせてロイヤリティーをいっそう発揮させるほうがコストが安いと考えているのではないでしょうか。その背景には、転職や離職の打撃があまりにも大きすぎるという日本の労働市場の現実があると思います。

実は私も、労働者の交渉力を十分に補強したうえで、個別契約の明確化は必要だと思います。しかし、上記のような状況が変わらない限り、やはり多彩な労働契約による予見可能性の確保は難しいと判断します。そして、優先して取り組むべきは、転職が大きな打撃とならないような労働市場をどう構築するか、労働者の職業能力の普遍化をどう確立するか、といったことではないかと思います。

次に 整理解雇の四要素に代わる裁判所の判断基準としての「解雇後の生活保障と転職費用」や「労働者との話し合い」ですが、確かに、そもそも赤字経営が続いて整理解雇に踏み切るような場合はそのような費用を企業は出そうにも出せないし、話し合いも定式化されてしまうのではないか、というご懸念はその通りだと思います。

ただ、やはり整理解雇を行う当該企業は、企業社会全体での雇用維持という原則を踏まえつつも、「雇用保障の原則がありながら、実際に解雇を実施した当該企業」としての責任は問われざるを得ないというのが、現在の社会通念ではないでしょうか。具体的な費用の額は、転職市場の成熟度によって異なると思いますが、すくなくとも、当該「解雇実施企業」は、一定の個別責任を果たすべきであり、その表象としての生活保障と転職費用のある程度の負担は必要であると思います。

また、 話し合いについては、なぜその労働者の雇用を維持できないのか、雇用を維持するためにどのような努力をしたうえでの判断なのかについての情報公開と説明とを義務付け、実際に説得をどれだけ行ったかは、これまでの判例から、ある程度実質的な判断枠組みが形成されているので、十分に可能ではないかと思いますが、この点についてはもう少し検討してみたいと思います。

最後に、やはり日本の労働契約はまだまだ「身分契約」だと認識されているなあ、とつくづく感じます。この点は、比肩しうべき先進諸国とはかなり異なりますね。整理解雇も「身分を奪うのはいけない」という意識の強さが、これれほどルール形成が 困難な理由の中心の一つとなっているのではないでしょうか。

2011年2月18日金曜日

小休止ですみません

このブログへの投稿がしばらくできず、申し訳ありません。

週明け(2月21日)までにはきちんとした投稿をいたします。ご寛恕ください。

2011年2月10日木曜日

契約に基づく雇用保障制度は本当に利用されないのか (安藤)

まず野川さんが最初に述べている「経済学者と法学者のスタンスの相違」についてですが、私もこれは単に思考プロセスの違いだと理解しています。

経済学者は、抽象的な理論分析から始めて徐々に現実に近づけた上で、実行可能な政策とは何かを検討します。そして実証分析により政策の妥当性を検証しようとするでしょう。一方で法学者は、現実の社会において実行可能な範囲内で最初から検討しているように思われます。

もちろん経済学者が現実を知らなければ、理論的には面白いが、実現が難しい答えを出すかもしれません。また、大胆な発想が出来ない法学者が考えたとしたら、実現可能性は高いものの、現行制度の微修正のようなプランしか提示できないこともあり得るでしょう。しかし経済学者でも法学者でも、結局は優れた研究者ならば、ほぼ同様の結論に至るのではないでしょうか。

さて、雇用契約をより明示的なものにしてはどうかという私の提案に対して、野川さんは「あまり現実的ではない」と評価しています。

野川さんの表現を借りれば「かなり柔軟に雇用期間や職務内容を多様化できるにも関わらず、安藤さんが想定されるような多彩な契約は実現ないし普及していない」ということですが、なぜ普及しないのかについては検討する必要があるのではないでしょうか。

仮に当事者が必要ないと考えていることが理由なら、明示的に契約を結べるように法律を変えても、特に問題は起こらないということを意味します。よって変えなくてもかまいませんが、変えてもかまわないという結論になるでしょう。

一方で、裁判所に事後的に否定される可能性があることが使われていない理由ならば、話は変わってきます。例えば有期雇用労働者の雇止めに対して、裁判所が整理解雇法理の類推適用を行うような現状を見て、当事者たちは、多様な契約を結ぶことが仮に可能であっても、実際には機能しないと考えて避けているのかもしれません。

よって現時点でも可能なのにあまり使われていないということだけで「現実的ではない」と結論付けることには同意できません。

もちろん野川さんの言うように、予見可能性が低い方が望ましいこともあり得るとは思うので、この点はもう少し検討したいと思います。

例えば外国において、実際に多様な契約が締結可能であり、その内容に沿った形で裁判所の判断が行われるにもかかわらず、限定的な雇用形態しか利用されていない例などがあれば私も納得しやすいのです。もしかしたら米国における雇用の実態を知ることなどが、私には必要なのかもしれません。

最後に、10年ほど前の東京地裁の新たな判断基準についてです。まず生活保障や転職費用に関しては、頂いたお返事を読んだ後でも疑問が残ります。

野川さんの「『一企業ではなく企業社会全体で雇用を維持する』という方向」に進むことが望ましいとの見解に対しては、企業に生活保障や転職費用の支払いを義務付けたとしても、例えば経営の失敗により倒産した場合には、労働者はそのような保障を受けられないでしょう。

それならば、企業社会全体ではなく「社会全体で雇用を維持する」と考えて、税金などで負担する方が望ましいようにも思います。この点についてはどのようにお考えでしょうか。

また「十分な話し合いを行って」いたかどうかを重視するという点については、本当に真摯な話し合いをしたかどうかを立証するのが難しいように思います。だからといって予測可能性を高めるために外形的な基準を導入したら、定められたプロセスが粛々と行われるだけになってしまい、労働者は納得しないのではないでしょうか。

以上、野川さんのお返事を楽しみにしています。

2011年2月4日金曜日

整理解雇ルールの基本的考え方と具体的基準 (野川)

整理解雇をめぐる安藤さんからの二つの質問に対する私の回答につき、大変丁寧なご指摘をいただき、恐縮しております。なお、二点目について、安藤さんはいみじくも「紛争解決の手続き論としては納得しました」と記しておられます。ここは経済学者と法学者のスタンスの相違が現れるところかもしれませんので補足します。 

よく、「法学者は目の前にある問題の解決に腐心するが経済学者はその奥にある問題を扱う」というような言い方がされますが、安藤さんと私の、この二点目のご質問に関する対応の相違は、こうした言い方にフィットするような印象を与えるかもしれません。しかし、おそらくそれは誤解で、実際には、法学者は、究極的には裁判所を通して実現される「規範」を対象とするので、問題解決の基準として具体的実効性を中心的な前提とせざるを得ない(もちろん、政策論としての妥当性を考えないというのではありません。優先順位の問題です)のに対して、経済学者は、理論的妥当性をさまざまな政策手法によってどのように実現できるか、という考え方が、どちらかというと優先されるということではないか、と思います。これも、私の認識がズレているのであればご指摘ください。

さて、本題ですが、 安藤さんが構想する「片務的長期雇用保障契約」の具体的内容はほぼ理解できたと思います。雇用の期間と職務内容について、多彩な内容の契約の締結を促進すべきだということになるでしょうか。これによって、整理解雇の要件を、明確で予見可能なものに近づけることが可能になるのではないか、というご意見であると受け止めました。

議論をわかりやすくするために、ここはあえて論争的な書き方をします。

私は、安藤さんのご提案はあまり現実的ではない、と考えます。それは、現状では無理だ、という意味ではなく、どうしても実効性に欠けるのではないか、ということです。

確かに現在の労働契約は、期間については、期間を定めないか(正社員の場合は定年までを見通すことになりますが、パート労働者でも期間を定めない場合が多いと言われています)、3年までの期間を定めるかの二択しかありません。しかし、実際には有期雇用契約自体が非常に内容多彩で(この点の詳細は厚労省に設置された「有期労働契約研究会」の報告書(2010年9月10日)に添付された「平成21年有期労働契約に関する実態調査報告書」(事業所版と個人版とがある)、及び「有期契約労働者の契約・雇用管理に関するヒアリング調査結果 - 企業における有期労働契約の活用現状と政策課題」(JILPT労働政策研究報告書No.126)をご参照ください)、大分類でも、

①高度のスキルを必要とし、責任も高度な「高度技能活用型」②正社員と業務及び責任が同一である「正社員同様職務型」③業務や責任は異なるものの、処遇の水準が同じ「別職務・同水準型」④業務のいかんを問わず責任が正社員に比べて軽い「軽易職務型」に分けられます。たとえばこのうち②や③では、5年、10年といった中期的な期間が想定されていて、実際にそれくらいの勤続期間がみられるようです。そして、この大分類はさらに細かくブレイクダウン可能です。

また、職務内容と勤務場所については現在でも特に規制はなく、自由にこれを限定したり、包括化したりすることができます。実際、最近では職種や勤務地を限定しているとみられる労働契約も珍しくなくなってきました。

問題は、このように制度的に、もしくは実質的に、かなり柔軟に雇用期間や職務内容を多様化できるにも関わらず、安藤さんが想定されるような多彩な契約は実現ないし普及していないということです。ということは、企業も労働者も、少なくとも現時点では、予見可能性は低くても現在一般化しているような茫漠とした労働契約を望んでいると言えるように思われるのです。

その理由は軽々に断言できませんが、一つには、予見可能性を回避した不確定な部分について、それこそ暗黙の了解が労使に成立しているのではないか、ということです。つまり、整理解雇必至のギリギリの場面でも、融通無碍の対応が可能な労働契約であることが、労使の信頼に基づく、微妙できわどい、しかし何とかお互いに納得のいく妥当な解決を導けるのだ、と考える労使が、まだまだマジョリティーなのではないでしょうか。

仮にそうだとすると、労働契約の内容をクリアーにして予見可能性を高める、という手法が現実化するには、そうした労使の認識自体が変わる契機が必要だということになるように思います。労働市場の流動化や、企業の人事管理の個別化のいっそうの進展など、現在はその方向に向かっていると思いますが、それこそ予見可能な将来に、安藤さんの構想するような労働契約の一般化が実現するとは言えないというのが私の見立てです。また、そうした多彩な契約を締結するよう法律や行政指導で誘導する、ということも、労政審の三者構成システムのもとでは実現可能性が低いと言わざるを得ません。これについては、もちろん、安藤さんの構想に対する私の理解不足もあると思いますので、安藤さんからの忌憚のない反論をお願いいたします。

最後に、私が提示した、10年ほど前の東京地裁の新たな判断基準について。確かに、安藤さんご指摘の通り、解雇後の生活保障や転職費用は、基本的には、失業保険(日本では雇用保険の求職者給付が軸となる)が担うべき役割です。しかし、失業保険が実際に十分な機能を果たすためには、転職市場がある程度確立し、労働者の能力に対する客観的評価指標が普及し、かつ職務給的な賃金制度の一定の定着が前提となります。それが実現していない現在、各企業は、自らが経営上の理由で放逐する労働者に対して、円滑な職業転換のための経費の一定部分を負担することで、「一企業ではなく企業社会全体で雇用を維持する」という方向への、「解雇実行企業としての責任」を果たすことになるのではないか、ということです。

また、新たな判断基準についてむしろ私が注目したいのは、経営上の理由により雇用維持を断念せざるを得ないという企業の事情につき、労使が対等に十分な話し合いを行って合意形成を目指すメカニズムを追及していることです。解雇手続きの明確化を重視し、加えて「企業がどれくらい労働者の納得を得る努力を重ねたか」を新たな要件としていることはその表れであるように思います。

今回はこの辺にしておきましょう。またお互いに負担にならないよう、マイペースで議論を進めていければ幸いです。諸外国との比較も折に触れ検討いたしましょう。

2011年2月1日火曜日

整理解雇の判断基準として何が適切なのか (安藤)

前回の野川さんの記事では,最初に私の二つの疑問への回答を頂きました。まず「労使間の本質的不均衡は解雇に制約を課することによってしか、現在でも是正できないと考えるべきか」という疑問に対しては,「当然ながら、労働市場の在り方や雇用慣行が大きく変わっていくなら、それに応じて、労使の不均衡に対応したルールの内容も変わり、必ずしも解雇がターゲットとはならなくなるように思います」というものでした。

これには納得です。一部には手段と目的を混同してしまい,解雇規制そのものを守ることに固執する議論も観察されますが,そもそも解雇を制約することは,手段であって目的ではありません。

雇用労働政策の本来の目的とは,労働者が技能形成や稼得能力を向上させる機会を継続的に得られること,また労働者の生活が安定・向上しうること,そして適切な努力をしている限りにおいては失敗しても再挑戦の機会があることなどでしょう。加えて本人の生まれ持った資質や選択した行動に応じて適切なセーフティネットが機能することや,現在働いている労働者の生活だけでなく,これから社会に出る若者や失業者にも配慮して,社会全体のバランスについて考えることが必要ですね。

例えば,一つの企業で長く働き続けるが待遇が低いままであることよりも,納得できる労働条件で途切れることなく仕事が見つかる安心感があること,また場合によっては職業訓練を経由することで職が見つかるのであれば,後者の方が望ましいことでしょう。これは外部労働市場の整備状況などとも当然関係します。

いずれにせよ,昔のように例えば祖父母の世代が農業をやっていれば,父母の世代も自分たちの世代もやはり農業に従事するような時代ではなく,職業選択が自由になったこと,また産業構造の変化が加速したために,働き始めた頃に従事した仕事が長い労働人生の途中で不要になってしまう可能性が高まったことなどにも対応できる労働政策が今日では求められているのです。

次に,整理解雇を「労働者側にではなく、使用者側に原因がある解雇」と理解することが適切か」という疑問に対する野川さんの回答は「『遠因』を争うことはあまりにも迂遠で合理的ではない」というものでした。これについても紛争解決の手続き論としては納得しました。

さらにいえば整理解雇とは労働者の責任ではなく使用者側の経営判断によるものと決めてしまっても,おそらく企業業績に連動して待遇の変化を受けている労働者については,企業業績悪化に対する当該労働者の責任は既にその待遇変化により負担しているとも考えられるので,正当化可能なのだろうと理解しました。

次に本題の「片務的長期雇用保障契約」についてです。これは野川さんのおっしゃるように,通常の企業において「正社員」と使用者間に成立している労働契約に非常に近いものを意図しています。

どこが違うのかと言いますと,既存の契約形態には,解雇権濫用法理(現在の労働契約法第十六条)と判例による整理解雇法理が付随しています。それらの法理には予見可能性が低いという問題があるため,これらの点については合理化と明確化が必要であること,また労働条件の不利益変更に関してもさらなる明確化を考えているため,「非常に近いもの」としました。

次に「解雇要件を明記した片務的長期雇用保障契約の締結は、具体的にどのように可能でしょうか」という質問を頂きましたが,この点については,まず私が以前(財)総合研究開発機構(NIRA)の報告書に書いた文章を転載した上で説明しましょう(http://www.nira.or.jp/pdf/0901ando.pdf)。

現在の労働ルールで許容されている契約の種類は非常に限られたものである。労働契約の期間については、実質的には、長期契約(例えば新卒の場合は定年までのおよそ30 年契約だが整理解雇の可能性があり、また集団的労働条件や配置転換などは実質的には使用者側が決める契約)と原則 3 年までの期限付き契約の二択となっている。これは労働条件を二極化させる要因となっているものであり、セーフティネットの充実を前提とするなら、契約の類型を多様化すべきである。
それではどのような契約を締結可能とするべきだろうか。労働需要を増やすという観点からは、契約解除の要件を明確化することが必要である。それにより安心して採用することができるようになるからだ。私見では、少なくとも、雇用契約の期間と場所、そして職務内容について当事者の自由意志に基づく契約を可能にすべきであると考えている。
まず期間でいえば、5 年契約や10 年契約を可能にすること、また一年前に告知すれば解除可能な雇用関係なども考えられる。次に場所については、配置転換の可否について契約に明記するだけでなく、仮に転勤ができない場合には事業所の閉鎖と共に雇用契約が解除されるなどの特約も許されるべきである。また職務内容についても、仕事がなくなったことを理由とする契約解除を可能にすること等が考えられる。

ここで述べているのは,整理解雇の要件を,できるだけ明確に契約で決められないかということです。例えば,現在の整理解雇の四要素の内の「解雇対象者の人選は合理的か」という点に関しても,現在雇われている労働者の雇用契約内容に従って解雇対象者が決まるようにするのです。このように明確な条件の下では,労働者が恣意的に解雇される可能性は低いということも,この施策が有益だと考えている理由です。

例えば大阪に本社がある企業が,東京営業所にて勤務地限定特約付きの労働者を片務的長期雇用保障付きで雇用したとしましょう。つまりこの労働者は,企業が東京から撤退しない限りはこれまでの正規雇用と同様の雇用保障を持ちます。ここで上司がこの労働者が気に入らないからといって,東京営業所を閉鎖することは想定しにくいのではないでしょうか。

おそらく整理解雇要件の契約による明確化をすると,これまでの正規雇用と同じだけの雇用保障を得られる人の割合は減るでしょう。しかし一度長期雇用保障を得た場合には,現在のものよりも保護が強いという面もあります。

またこの明確化は,長期雇用の否定ではありません。この点についてもNIRAの報告書で述べたことを再度転載しておきましょう。

繰り返しになるが、この提案は長期雇用を否定するものではない。当事者の合意による長期雇用は多くの場合において社会的にも望ましいものであるからだ。例えば5年契約を2回繰り返した上で、定年までの長期雇用を提示される労働者がいるかもしれないし、有能な労働者に対しては仮に当初の契約期間が5年であっても、1年目に長期雇用契約が提示されるかもしれない。しかしそれは選択肢を絞ることによって外から強制される形で長期雇用を実現するのではなく、あくまで当事者たちが選択した結果としての長期雇用であることが大切であると考える。

おそらく野川さんと私とでは,整理解雇の要件(要素)が現在のままで良いとは考えていないという意味では意見の相違がないのですが,私は契約解除要件の契約による明確化を考えているのに対して,野川さんは「今から10年ほど前に東京地裁が試みていた整理解雇の新しい判断基準」に注目しているという意味で違いがあるようです。

私は,この新しい判断基準についてまだよく理解できていません。例えば失業保険があるのに,その上で「解雇後の一定期間の金銭的サポート」が本当に必要なのでしょうか。これが解雇の金銭解決を意味するのであれば,それを労使合意の下で契約に取り入れることについては問題ないと思いますが,これを契約として強制すべきでしょうか。それは,このような金銭的サポート部分は,雇用期間中の賃金の低下により打ち消されてしまう可能性が高いため,これを望まない人もいるように思えるからです。

というわけで,私は解雇要件を契約として明確化することを考えていたのですが,野川さんは整理解雇を裁判所が認める際の要件を実態に合うように変更することを考えているのですね。この違いを理解した上で,次回以降は整理解雇の要件をどのように定めるのが有効かつ望ましいのかについてさらに考えていきたいと思います。その際にはもちろん比較法的な検討も重要ですね。他国のルールについては・・・これから泥縄で勉強したいと思います。

2011年1月29日土曜日

整理解雇に対する法的ルールのあり方 (野川)

今回のテーマは、整理解雇に対する合理的で適切なルールはどうあるべきか、についての序論ということになりますね。

まず、前回の私の記述内容について、安藤さんが指摘してくださった疑問点に簡単にお答えします。第一に、「労使間の本質的不均衡は解雇に制約を課することによってしか、現在でも是正できないと考えるべきか」という点です。

実は、私自身の見解としては、転職市場の十分な整備やキャリア形成と能力評価の仕組みの客観化、労働組合の機能強化、労使における個別労働契約の明確化などいくつかの条件を満たすならば、現在の判例法理や法律の規定を変えずとも、(差別や人権侵害等の場合を除いて)解雇は辞職と同様に扱われるようになると思っています。

現在、労使間の本質的不均衡を理由として解雇に法令上及び判例上加えられている規制は、前々回に指摘したことと関連しますが、「労使間に確立されている信頼関係を破壊するような解雇」に対する是正ルールなのです。現在のように、一度正社員としてある企業に採用され、その企業固有の人事コースに乗せられ、長期雇用システムを適用されることとなった労働者にとって、解雇による打撃は、労働条件の切り下げや福祉厚生の悪化よりもはるかに大きいことが通常なので、特にこの「信頼を裏切る」解雇はその打撃の大きさに応じた厳しい規制が課せられていると言えるでしょう。

したがって、当然ながら、労働市場の在り方や雇用慣行が大きく変わっていくなら、それに応じて、労使の不均衡に対応したルールの内容も変わり、必ずしも解雇がターゲットとはならなくなるように思います。

第二に、整理解雇を「労働者側にではなく、使用者側に原因がある解雇」と理解することが適切か」、という点ですが、 これは法的ルールが「裁判所で争われるケースの処理基準を提供する」という役割を担っていることと関係します。つまり、整理解雇が生じてしまった原因を大もとまでたどれば、確かに労働者側にも原因を見出すことが可能かもしれませんが、今目の前で起こった整理解雇についてその不当性を訴えている労働者の主張を認めるかどうかを決定する折には、「遠因」を争うことはあまりにも迂遠で合理的ではないと考えられるのです。要するに使用者は、「経営上解雇せざるを得ない」ということを解雇理由として述べているわけですから、これを「使用者側に原因のある解雇」と整理して処理基準を検討することにならざるを得ないということです。

安藤さんが述べられている「本題」について。 「片務的長期雇用保障契約」という概念は、私の理解が的外れでなければ、まさに通常の企業において「正社員」と使用者間に成立している労働契約の実質を言い当てていると思います。私はこれを「雇用保障と強大な人事権との取引」と表現していますが、これは良し悪しは別として、特に高度成長期型の労働契約の在り方として、強い合理性を備えていたと認識しています。労働者は特定企業もしくは企業グループや関連企業の中で固有のスキルやキャリアを形成するだけの期間を与えられ、技能の熟練や経験の蓄積によって賃金の上昇も期待できるし、企業はそこから高い生産性や強いロイヤリティーといった果実を享受できるわけですから。

しかし、そのような関係においても、安藤さんのおっしゃるとおり整理解雇を全く認めないということになれば労働者自身が路頭に迷い、キャリア形成も断ち切られることになりかねないので、裁判所は懸命に調整原理を模索して、人員整理の必要性、解雇回避努力、解雇基準の妥当性、適正な解雇手続き、という四つの判断要素を設けて、これらを満たせば解雇は有効であるとしてきたわけです。

これに対して安藤さんは、「新規の片務的長期雇用保障契約につ いては,これまでのように無期雇用と解雇権濫用法理,そして整理解雇法理によって実現するのではなく,解雇要件を明記した片務的長期雇用保障契約を労使が 直接的に締結可能として,これと解雇権濫用法理を組み合わせることで実現するべきだ」 と述べられています。しかし、解雇要件を明記した片務的長期雇用保障契約の締結は、具体的にどのように可能でしょうか。ひな形を作ったとしても、それが普及するような雇用環境にあるでしょうか。まず、ご提案の「実効性」について少し安藤さんの見解を詳しくお聞きしたいと思います。

そのうえで、今回は、整理解雇ルールについての私の考えを簡単に述べて、二人の見解を明確にし、次回以降の議論を深めていきたいと思います。

私は、今から10年ほど前に東京地裁が試みていた整理解雇の新しい判断基準に注目しています。それは、上記の四つの判断要素のうち、人員整理の必要性と解雇回避努力は原則として除き、解雇基準の妥当性と解雇手続きをより強く企業に求めたうえで、新たに「人員整理をしなければならない必要性について十分に労働者に理解を求めること」と「解雇後の一定期間の金銭的サポート」を条件としたものです。

環境変化のスピードが激しく、特に経済的領域では国の垣根が劇的に低くなっている現在、人員整理が必要かどうかといった経営判断に裁判所が立ち入った介入をすべきではないと思いますし、解雇に至る前にできることを可能な限りやりつくした後でなければ解雇できない、というルールは、雇用関係の個別化が進展すればするほど法的ルールとしてはうまく機能しなくなるでしょう。 必要なのは、整理解雇について直接には責任のない労働者の雇用とキャリア形成をサポートすることですから、解雇後の一定期間について円滑な職業転換を支えるための金銭的保障を行わせることが適切だというのが東京地裁の意図だったと思います。

しかし、このような方向が実際に模索されるためには、アメリカのように「解雇されてから転職するまでの期間が短く、転職した先での賃金の方が解雇された会社でもらっていた賃金より高いことも稀ではない」というような外部労働市場の整備がなされることが前提となります。その見通しを立てるための政策を急ぎつつ、上記のような新しいルールを考えていくべきだと思います。

他方で、ドイツ、英国、フランスといった欧州諸国は、経営上の理由による「大量解雇」については、解雇する人数によって手続き規制と内容規制を加えるのが通常です。次回以降、こうした国際的視点も加えて議論を展開していければ、と期待しています。

長期雇用と整理解雇 (安藤)

野川さんの「脚注」を読んでいたら,なんだか私が学生として野川ゼミで報告していて,それを先生に採点してもらっているような気分になってきました(笑)。しかし面の皮の厚さと豊満なボディが自慢の私としては,そんなことは気にしません!

というわけで本日は,整理解雇はなぜ必要なのか,またなぜ現行法で許されているのかについて考えたいと思います。結論を先に言ってしまえば,整理解雇が可能であるのは,その方が結果的に労働者のためにもなるからというのがその理由です。しかし,この話に取りかかる前に,前回の野川さんの記述に関して私が納得できていないところが二点ありますので,それらを指摘しておきましょう。

まず一点目は「労使には本質的な不均衡があるので、解雇については法令や判例でいろいろな制約が課されてきました」という箇所です。このように「本質的な不均衡」に伴い発生しうる問題が仮にあるとしても,それは解雇に制約を課すことでしか現在でも是正できないものなのでしょうか。例えば,最近はインターネットの発達等により情報の透明化や流通が促進されたことで,企業における実質的な待遇やいわゆる「ブラック企業」についての情報などが手に入りやすくなったように思われます。このような時代変化や技術進歩に応じて,問題を解決する最適な手段も当然に変化しうるのではないでしょうか。そこで本日は無理ですが,解雇に制約を課すことの代わりに採りうる手段として,実際にどのようなものが考えられるかについても近いうちに検討したいと考えています。

二点目は「整理解雇が大問題となるのは、『なぜ解雇するのか』の理由が、労働者になく使用者にあるためです」という所です。私は前回の投稿でも述べたように,少なくとも企業業績に応じて増減するボーナスを受け取っている場合には,労働者も企業業績に一定の責任を負っていると考えています。極端な例を挙げるならJALのようなケースですね。

では早速本題に移りましょう。本日考えるのは,整理解雇についてです。これは定年までの長期雇用という約束の一方的な破棄であるのに,なぜ許されるのでしょうか。

まず注目して頂きたいのは,一般的に「終身雇用」という言葉が用いられることもあるのに,ここではより正確に「定年までの長期雇用」と書いている点です。しかし実はこれでもまだ不正確です。なぜなら,わが国では定年までの長期雇用契約というものが本当は結べないことになっているからです。これは民法の制約により,仮に労使が合意の上であっても,例えば「65歳の定年までは企業が雇い続けるし労働者も働き続けることを約束する,そして相手の同意なく途中で一方的な解約はできない」といった契約は結べないということを意味します。

定年までの長期雇用契約が結べないのはなぜでしょうか。それは歴史的経緯から,過度に拘束的な働き方になってしまうことを防ぐために,これを分かりやすくいえば債務などを理由とする奴隷労働などを防止するために,契約期間に対する規制が必要だと考えられていたからです。このような理由により,2004年に労働基準法が改正されて有期雇用の上限が原則として3年(例外5年)になるまでは,期間を定めた雇用契約は1年までとされていました。そして1年を超える長期の雇用は,期間を定めない契約という形で行われていたのです。

それでは期間を定めない契約とはどのようなものでしょうか。これは前回,野川さんが民法の原則として説明されたことですが,特に何もしなくても契約は自動更新されていくが,一定の条件の下では労使のどちらからでも一方的に解除できるというものです。このように一方的に解除可能であれば奴隷労働を防ぐことができそうですね。まあ実際にはいろいろと難しいところもあるのですが。

さて続いて,何らかの理由で,企業側が労働者に対して定年までの長期雇用を保障したいと考えた場合を考えてみましょう。これは例えば,その企業でしか使えない特殊な技能を得るための努力を労働者に要求したい場合や,労働者が収入の過度な変動を嫌う場合にリスクの大部分を企業が負担する保険契約を結ぶことで労使双方が得する場合,そしてキャリア形成の過程や労働時間,勤務地等を使用者側が一方的に決められる自由度が欲しい場合などが該当します。

このとき企業は,長期雇用保障を一方的に提示するのと同時に,労働者からの離職は制約しないことを選択するかもしれません。これを片務的長期雇用保障契約と呼ぶことにします。

ここで注意したいのは,使用者側が片務的長期雇用保障を提示するのは,企業が労働者に優しいからでも社会全体のことを考えているからでもありません。企業利益を最大にするという目的を達成するための手段を突き詰めて考えた結果としても,場合によってはこのような長期雇用が提示されうるのです。

このような片務的長期雇用保障契約は,1年までの有期雇用や,条件を満たせばいつでも契約解除ができる無期雇用としては実現できません。そこで,無期雇用と解雇権濫用法理(現在の労働契約法第16条),そして判例により形成された整理解雇法理の組み合わせにより,長期雇用が実質的に実現されてきたと理解できます。そして実質的に長期雇用を目的として利用されることが多い無期契約の場合には,正当な理由がない限り整理解雇が出来ないという整理解雇法理が使用者側からも必要不可欠なものだったのです。

ただし,まったく整理解雇が出来ないとなると問題があります。それは,人々の好みや時代の変化などにより避けられない人員削減が出来なくなってしまうことです。もちろん長期雇用を保障したのであるから,可能な限りは労働者に対して当人が出来る仕事を探して解雇を防ぐのは当然という考え方もあるでしょう。しかし,どうしようもない異常事態も起こりえます。

例えば,このままでは近いうちに倒産してしまい労働者全員が失業してしまうが,一定の労働者を解雇して身軽になれば復活可能である場合などにおいては,整理解雇を行った方が労働者全体の利益となります。なぜなら倒産により労働者全員が失業者になってしまい皆が同時に新たな職探しをするよりも,解雇を一部に留めることで同種の技能を持つ失業者が少ない方が再就職が容易になるからです。

また,そもそも整理解雇が不可能であるとするなら,使用者は最悪のことを見越した労働条件を提示するでしょうし,労働条件がなかなか改善しないことにもつながりかねません。そして企業にとっては労働者を雇うことの負担が大きくなるため,最初から少ない人数しか雇わないかもしれませんし,また仕事の一部を外国企業に下請けに出したり,人手を使わずに機械によって仕事を置き換えたりもするでしょう。これらはわが国の労働者全体の視点からも望ましくないことだといえます。

以上をまとめておきましょう。まず民法における本来の無期雇用とは,一定の条件の下で労使のどちらからでも契約解除なものでした。しかし実質的に長期雇用に用いられることが多かった無期雇用をより使いやすいものとするために,解雇権濫用法理と判例法としての整理解雇法理によりこれを修正しました。その際に,整理解雇が不可能だとかえって労働者全体のためにもならないので一定の条件(整理解雇の四要素)に基づく整理解雇は可能とされた,というのがこれまでの経緯といえるでしょう。

ここで昔と比べて産業構造の転換が早くなった現在の社会においては,裁判所がどのように判断するかについての予測が難しく,それにより企業が整理解雇に踏み切りにくい場合には,仮に裁判所の判断が明確であったなら生き残って労働者の一部を雇用し続けられたはずの企業が倒産してしまう可能性があります。このとき,労働者全体のためにも,どのような場合に整理解雇が認められるのかが経営者にとって明確に判断できるようになれば労使双方にとって有益だといえるでしょう。このような意図から,私は既存の契約に関しても,整理解雇の四要素は「合理化と明確化をすべき」と考えています。

ここまでは既存の片務的長期雇用保障契約について,なぜ整理解雇が必要なのか,また可能なのかを述べてきました。しかし新規の片務的長期雇用保障契約については,これまでのように無期雇用と解雇権濫用法理,そして整理解雇法理によって実現するのではなく,解雇要件を明記した片務的長期雇用保障契約を労使が直接的に締結可能として,これと解雇権濫用法理を組み合わせることで実現するべきだと私は考えています。この点については野川さんから頂くお返事の内容にもよりますが,可能ならば次回に議論したいと思います。

2011年1月27日木曜日

整理解雇ー最初の大問題 (野川)

さっそく大問題の登場ですね! これまで、労働法学者と経済学者とが雇用・労働にかかわる課題について検討した本は何冊もありますが、いずれについても整理解雇は中心的なテーマでした。
(安藤さんも参加された「格差社会と雇用法制ー法と経済学で考える」(福井秀夫=大竹文雄編著、日本評論社)では、安藤さんはじめ数人の経済学者が論じておられますし、「解雇規制の法と経済ー労使の合意形成メカニズムとしての解雇規制」(神林龍編著、日本評論社))は全体が整理解雇にかかわっていると言ってもよいくらいです)

さて、安藤さんのご指摘を読み、まず思い知らされたのは、法的課題について実によく勉強されていることです。私の経済学に対する素養が、それに釣り合うくらいあればよいのですが・・・

 それでは、整理解雇の法的意味について、安藤さんのご理解に特に修正すべき個所はないので、例によって脚注をつけます。
まず解雇は、法的に表現すると、「労働契約という契約を、使用者側から一方的に解約すること」です。解雇に対して、逆に「労働契約を労働者側から一方的に解約」するのが「辞職」です。そして、両者が合意して労働契約を解消するのが「合意解約」で、一般の「退職」がこれにあたります。(ここでは、期間を定めた有期労働契約のことは取り上げないこととします。ちなみに、当初定めた雇用期間が満了したのでそこで労働契約関係が終わる、という場合は「解雇」とは言いません。)

解雇と辞職は、民法上はどちらも対等に「自由」でしたが、労使には本質的な不均衡があるので、解雇については法令や判例でいろいろな制約が課されてきました。辞職は、民法の原則が今も生きていて、2週間の予告期間さえ置けば全く自由です。しかし解雇は、現在では労働契約法16条が、客観的に合理的な理由がなく、社会的に相当と認められない場合は無効であるとしています。

つぎに、解雇が通常、普通解雇と懲戒解雇と整理解雇に分けられること、及びそれぞれの内容については、安藤さんの整理の通りでまちがいありません。整理の仕方としては、「労働者側に原因がある解雇」と「使用者側に原因のある解雇」に分けて、前者に普通解雇と懲戒解雇、後者に整理解雇をあてることもありますね。

そして、整理解雇が大問題となるのは、「なぜ解雇するのか」の理由が、労働者になく使用者にあるためです。たとえば、ある労働者が、サボってばかりで与えられた仕事が全く進まない、という理由で解雇された場合は、明らかに労働者側に理由があるので、その解雇が上記労契法16条に照らして有効かどうかを判断するには、「その仕事のためだけに雇用するという契約だった」という場合を除いて、サボったことについて考慮すべき余地はないかとか、他の仕事に回す余地はなかったのかとか、会社も十分に諭して反省の機会を与えたのかとかいったことが検討されます。

しかし、整理解雇は会社の都合によって(多くの場合は経営上の危機)解雇するので、身に覚えのない労働者にとってはあまりにも不当だ、と受け止められます。労働者側に原因がある解雇でさえ、訴訟になればいろいろな事情が考慮されて「解雇までは認められない」という判断が下されることも多いのですから、何も悪いことをしていない労働者でも解雇される整理解雇は、全く認められる余地はない、ということになりそうです。ところが、そう言って整理解雇を認めないと、会社自体がつぶれてしまって 全ての従業員が路頭に迷うということになりかねない。
このような深刻な事情があるので、整理解雇については、上記労契法16条の判断基準をそのまま使うだけでは有益な解決がつかないのです。そこで、どのような合理的なルールがあるべきかについて、裁判所も学者も大変な苦労をしてきました。

・・・以上脚注でした。次はいよいよ「論争」になるかもしれませんね! 乞ご期待(?)

整理解雇とは何か (安藤)

前回,私は「正社員は既得権者なのか?」というタイトルで投稿しました。野川さんは,その内容を「正社員は確かに既得権を有しているが、それは十分に合理的な理由のあることであって、それを奪うには原則として意を尽くした説明と合意形成が必要であり、それもかなわないときは一定の対価の支払いが保証されるべき」と要約し,その意味であるなら(いくつかの注意点はあるものの)異論はないというご意見でした。

それを読んで私はとても安心しました。私たちは互いの理解を深めることを目的としてこのBlogを開設しているので,仮に意見の相違があってもまったく問題はないのですが,とりあえず出だしは好調のようです(笑)

さて頂いた三つのコメントは,すべて理解できますし同意します。例えば一点目の「正社員」については,今後は言葉の使い方に注意する必要があるという意味でも,とても勉強になりました。ただし三点目については,より丁寧な切り分けと説明が経済学の視点から可能ですし,また必要であるとも感じています。しかし,まずは整理解雇の意味を理解しておくことが,話を先に進めるためにも必要でしょう。

前回の投稿において,野川さんの言葉を借りれば,私は「正社員は確かに既得権を有しているが・・・それを奪うには原則として意を尽くした説明と合意形成が必要」であるという主張をしましたね。しかし,それならば企業(正確には使用者側というべきです)が労働者を一方的に解雇する整理解雇とは,長期雇用の約束を破る行為であり,許されないものではないかとの疑問を持った読者もいたはずです。そこでこのエントリでは, まず,整理解雇とは何かという点を整理しておきましょう。もし以下の私の記述に誤解があれば,すぐに野川さんから訂正が入るはずです(笑)

解雇には,懲戒解雇,普通解雇,そして整理解雇があります。まず懲戒解雇とは,あらかじめ就業規則で定められた懲戒事由に該当する行為を労働者が行った場合に行われる解雇を意味します。

次に普通解雇とは,何らかの理由で労働者がこれまで通りに仕事を続けられない場合に行われる解雇を指すものです。例えば犯罪行為により当該労働者が刑務所に入ってしまった場合には仕事を続けられませんね。また何らかの理由で労働者がやる気をなくしてしまったときに,上司や周囲の人が真摯に当人に向き合って話し合ったとしても,そして負担の少ない仕事への配置転換などさまざまな手段を講じたとしても,やはり状況が改善されないとしたら,これも仕事を続けられない場合に当てはまるでしょう。

そして整理解雇とは,時代の変化や技術進歩,そして消費者の好みの変化等の理由で,これまでの仕事がなくなってしまった場合に行われる解雇です。例えば特定の事業分野からの撤退や工場の閉鎖により,これまで企業が雇っていた労働者が不要になってしまった場合などを想定すれば良いでしょう。

普通解雇と整理解雇の分かりやすい判別方法は,解雇が行われた後に後任が雇われるかどうかを見ることです。例えば,ある労働者が解雇された後に,その人が担当していた仕事が残っている場合には後任が雇われるでしょう。これが普通解雇です。一方で,仕事がなくなったことが理由で解雇されたのなら,後任は雇われませんね。

また懲戒解雇や普通解雇は労働者側に(も一定の)責任があるのに対して,整理解雇は労働者側には責任がない,言い換えれば労働者は悪くないのに解雇されることだと理解されるのが一般的です。

ただし,日本では企業別の労働組合が多く,このとき労働者も企業業績に対して一定程度の貢献と責任を負っているという考え方もあります。例えば労働者がボーナスという形で企業の利益の一部を受け取っている場合には,「経営状態の悪化は経営者の判断ミスであり,労働者は完全に無関係である」と考えて良いとは限りません。

今回のエントリで私が述べた「整理解雇」の理解に問題がなければ,続いて,整理解雇とは長期雇用契約という約束の一方的な破棄であるのに,なぜ一定の条件の下で許されるのかについて考えることにしましょう。

2011年1月26日水曜日

「正社員」という法的地位はない (野川)

安藤さん、第一球ありがとうございます。なんだか、打ちやすいように配慮していただいたような…

まず、解雇をはじめ、労働契約関係全体に対する法的ルールの在り方を考え直さなければならないという問題意識は共有していると思います。短期雇用を繰り返し、一般に低賃金でキャリア形成の機会が少ないという「非正規労働者」と、長期雇用とキャリア形成の機会を享受できることが普通である「正規労働者」の二分法を改めようという機運は政策の対応にも見えるのですが、どのような方向があるのかについて共通認識がないようですね。 政策にも深く関与しているある労働法学者は「中期雇用」という概念を提示していますが、これもそうした状況における一つの試みだと思います。

さて、 安藤さんの見解のポイントを、「正社員は確かに既得権を有しているが、それは十分に合理的な理由のあることであって、それを奪うには原則として意を尽くした説明と合意形成が必要であり、それもかなわないときは一定の対価の支払いが保証されるべき」というように理解してよろしいでしょうか? そうだとすると、私としては、いわば「脚注」を付するくらいで異論はありません。しかし、まさに「脚注」が大切かもしれないので以下に簡単に記します。

第一に、正社員という法的地位はありません。世間一般には、正社員とは、学卒新規採用で期間の定めのない労働契約により雇用され、企業の中心的なプロモーション(昇進・昇格によりどこまでも出世可能)のラインに乗っている人たちをイメージしているようですが、法令上は、正社員と非正規従業員という区別をすることはないのです。
たとえば、労基法は正社員だろうが有期雇用労働者だろうがパート労働者だろうが、もっと言えば学生のアルバイトにも適用されますし、労組法に至っては雇われていない人でも、一定の要件を満たせば適用されます。したがって、正社員に既得権があるとしたら、それには特別な法的根拠はないのであって、企業社会が作り上げた慣行に過ぎないのです。
ですから、全く正社員というイメージに合わない雇用をされている人が正社員のイメージに合う雇用をされている人より優遇されても一向構わないし、労使で自由に雇用形態を合意してよいのです。たとえば、一日6時間働く人が、一日8時間働く人の上司になったり、3年の有期雇用を繰り返している人が部長になっても問題ない。
要するに、正社員の既得権は、それが法律で直接保護されているものでない限り(繰り返しますが、法律は「正社員」だからという保護の仕方はしておらず、労働者なら対等に保護しています)、労使の合意さえあれば自由に「奪って」よいのです。

第二に、解雇権濫用法理(労契法16条)や整理解雇法理(これは法律には書いておらず、裁判所が判決を積み重ねる中で作られた「判例法理」ですね)は、確かに一般的にイメージされる「正社員」を守っているように見えます。しかし、それも、まさに安藤さんがご指摘の通り、そして私も著書やツイートで指摘しているように、契約によって正社員は長期雇用を享受し、その代り過酷な指揮命令によって過労死の危険まで引き受けて働いているという実態が背景にあります。私の言葉でいえば、「雇用保障(及び相対的高賃金)と強大な人事権への屈従(過酷な長時間労働、辞令一本での家族を引き裂く遠隔地配転、etc)」の取引が行われているので、有期雇用労働者や一部のパート労働者(パート労働者の中には、正社員とほとんど代わらない地位にある人も少なくない)に比べて、雇用の安定や相対的な高賃金が正当化されるのです。したがって、一見正社員の「既得権」と見えるのは十分に合理的な理由があるので、これを法的に奪う措置を施すとすれば、この合理的理由を凌駕するよほどの説得力ある根拠が必要ということになります。(これはもちろん、現在のそのような正社員の立場が望ましいということではありません)

第三に、それでは現在の正社員の「既得権」を法的に奪うことを正当化するような根拠がありうるか、ということになりますが、 そこは安藤さんのご指摘通り、若者の雇用を拡大するために年長者の早期引退を促す(フランスではかなり本格的に取り組まれましたね)とか、企業経営にもう少し柔軟性を持たせるために解雇の金銭解決制度を設ける、といった提案がなされる可能性があります。しかし、そうした対応がなされれば大きな不利益を余儀なくされる人々が生じるのであって、仮にそのような提案が検討される場合には、年長者の職業人生を他で生かせる場の確立や、転職市場の充実・拡大と転職によって労働条件は下がらないという可能性の確立など、非常に難しい対応策が必要となるでしょう。

なお、整理解雇の四要素については、私にも腹案がありますが、また項を改めて議論いたしましょう。

2011年1月25日火曜日

正社員は既得権者なのか? (安藤)

2011年3月末に卒業予定の大学生の就職内定率が,12月末時点で68.8%であることに注目が集まっています。また最近,わが国の労働法制はこのままで良いのかといった議論が多方面で展開されています。

さて労働法制を考える際には,やはり解雇規制のあり方についての議論は避けられません。しかし一部では解雇権の濫用と整理解雇法理の関係がクリアでないまま行われる乱暴な議論もありますし,また既存の労働契約とこれから新たに結ばれる労働契約とを分けて議論されていないこと等も見られます。

新規の雇用契約に関しては,私は現在のように原則3年までか,または定年までの長期かという二択を続けることには問題が多いため,これをより多様化させるべきではないかと考えています。しかし本日の話題は,既存の長期雇用契約についてです。

最近,正社員は既得権者であり,賃金に見合った貢献をしていない場合が多いため,その解雇を容易にすべきだという趣旨の発言を良く見かけます。ちなみに私も以前は「現在の正社員はこの点から言えば既得権者」だと書いてしまいましたが(http://lab.arish.nihon-u.ac.jp/munetomoando/nikkei061212.html),現在では,現行の法制度の下で実質的な長期雇用契約を結んだなら,原則としてこれを守るべきだと考え方を改めました。なぜでしょうか。

まず注意が必要なのは,正規と非正規の違いは賃金の差だけではないということです。正規雇用には,それに付随して,非正規にはないさまざまな義務や不自由等があります。例えば職種の変更や転勤を伴う勤務地の変更,そして三六協定の下での残業などについて,使用者側が実質的な決定権を持っていることなどは考慮しなければなりません。

ここで言いたいのは,既存の正社員は何かを対価として差し出したからこそ既得権を得ているということです。それなのに正社員を既得権者だと安易に糾弾すること,また契約にあったはずの雇用保障をいきなり取り上げようとすることには正統性がないと考えます。

例えば土地の収用について考えてみてください。財産権は保護されるべきであり,これが原則です。しかし例外として,社会全体のためにどうしても必要であれば適正な対価を払うことで土地が収用される場合もあります。

雇用契約についても同様の考え方をすることが自然だと思うのです。既存の契約は原則として保護されるべきであるが,しかし社会全体のために一部を取り上げることが真に必要となるかもしれません。ただしその際には,意を尽くした説明・説得と一定の対価の支払いが行われるべきではないでしょうか。

繰り返しますが,原則と例外の関係が重要なのです。例えば社会全体のためには,これから長い労働人生が残されている若年層に就労による技能形成のチャンスを与えることが有益だと思われます。このとき,何らかの対価を払って年長者に席を譲っていただくことが必要になるかもしれません。しかしそれは強制的に実施されることを前提とするのではなく,あくまで合意に基づく取り組みとして実施できないかを先に検討すべきでしょう。

なお既存の雇用契約に関して,私は整理解雇の四要素(要件)について「合理化と明確化をすべき」だと考えていますし,池田信夫さんとの会話の中でもそのように発言しています(http://togetter.com/li/90352)。その理由については別のエントリで議論したいと思います。

面白くてためになる…かな? (野川)

エネルギッシュで行動の早い安藤さんと意気投合し、法学者と経済学者とが、雇用・労働問題について、わかりやすくて論点のクリアーな議論をする場を設定することになりました。マイペース(アワペース?)で進めていきたいと思います。こうご期待・・・かな?

Blogを始めます (安藤)

本日,明治大学にて野川忍さんと相談した結果,労働問題や政策について議論できる場を作ろうということになり,共同でBlogを書いてみることにしました。

このスタイルはThe Becker-Posner Blogの真似ですが,さてどうなるかな?