2011年1月29日土曜日

整理解雇に対する法的ルールのあり方 (野川)

今回のテーマは、整理解雇に対する合理的で適切なルールはどうあるべきか、についての序論ということになりますね。

まず、前回の私の記述内容について、安藤さんが指摘してくださった疑問点に簡単にお答えします。第一に、「労使間の本質的不均衡は解雇に制約を課することによってしか、現在でも是正できないと考えるべきか」という点です。

実は、私自身の見解としては、転職市場の十分な整備やキャリア形成と能力評価の仕組みの客観化、労働組合の機能強化、労使における個別労働契約の明確化などいくつかの条件を満たすならば、現在の判例法理や法律の規定を変えずとも、(差別や人権侵害等の場合を除いて)解雇は辞職と同様に扱われるようになると思っています。

現在、労使間の本質的不均衡を理由として解雇に法令上及び判例上加えられている規制は、前々回に指摘したことと関連しますが、「労使間に確立されている信頼関係を破壊するような解雇」に対する是正ルールなのです。現在のように、一度正社員としてある企業に採用され、その企業固有の人事コースに乗せられ、長期雇用システムを適用されることとなった労働者にとって、解雇による打撃は、労働条件の切り下げや福祉厚生の悪化よりもはるかに大きいことが通常なので、特にこの「信頼を裏切る」解雇はその打撃の大きさに応じた厳しい規制が課せられていると言えるでしょう。

したがって、当然ながら、労働市場の在り方や雇用慣行が大きく変わっていくなら、それに応じて、労使の不均衡に対応したルールの内容も変わり、必ずしも解雇がターゲットとはならなくなるように思います。

第二に、整理解雇を「労働者側にではなく、使用者側に原因がある解雇」と理解することが適切か」、という点ですが、 これは法的ルールが「裁判所で争われるケースの処理基準を提供する」という役割を担っていることと関係します。つまり、整理解雇が生じてしまった原因を大もとまでたどれば、確かに労働者側にも原因を見出すことが可能かもしれませんが、今目の前で起こった整理解雇についてその不当性を訴えている労働者の主張を認めるかどうかを決定する折には、「遠因」を争うことはあまりにも迂遠で合理的ではないと考えられるのです。要するに使用者は、「経営上解雇せざるを得ない」ということを解雇理由として述べているわけですから、これを「使用者側に原因のある解雇」と整理して処理基準を検討することにならざるを得ないということです。

安藤さんが述べられている「本題」について。 「片務的長期雇用保障契約」という概念は、私の理解が的外れでなければ、まさに通常の企業において「正社員」と使用者間に成立している労働契約の実質を言い当てていると思います。私はこれを「雇用保障と強大な人事権との取引」と表現していますが、これは良し悪しは別として、特に高度成長期型の労働契約の在り方として、強い合理性を備えていたと認識しています。労働者は特定企業もしくは企業グループや関連企業の中で固有のスキルやキャリアを形成するだけの期間を与えられ、技能の熟練や経験の蓄積によって賃金の上昇も期待できるし、企業はそこから高い生産性や強いロイヤリティーといった果実を享受できるわけですから。

しかし、そのような関係においても、安藤さんのおっしゃるとおり整理解雇を全く認めないということになれば労働者自身が路頭に迷い、キャリア形成も断ち切られることになりかねないので、裁判所は懸命に調整原理を模索して、人員整理の必要性、解雇回避努力、解雇基準の妥当性、適正な解雇手続き、という四つの判断要素を設けて、これらを満たせば解雇は有効であるとしてきたわけです。

これに対して安藤さんは、「新規の片務的長期雇用保障契約につ いては,これまでのように無期雇用と解雇権濫用法理,そして整理解雇法理によって実現するのではなく,解雇要件を明記した片務的長期雇用保障契約を労使が 直接的に締結可能として,これと解雇権濫用法理を組み合わせることで実現するべきだ」 と述べられています。しかし、解雇要件を明記した片務的長期雇用保障契約の締結は、具体的にどのように可能でしょうか。ひな形を作ったとしても、それが普及するような雇用環境にあるでしょうか。まず、ご提案の「実効性」について少し安藤さんの見解を詳しくお聞きしたいと思います。

そのうえで、今回は、整理解雇ルールについての私の考えを簡単に述べて、二人の見解を明確にし、次回以降の議論を深めていきたいと思います。

私は、今から10年ほど前に東京地裁が試みていた整理解雇の新しい判断基準に注目しています。それは、上記の四つの判断要素のうち、人員整理の必要性と解雇回避努力は原則として除き、解雇基準の妥当性と解雇手続きをより強く企業に求めたうえで、新たに「人員整理をしなければならない必要性について十分に労働者に理解を求めること」と「解雇後の一定期間の金銭的サポート」を条件としたものです。

環境変化のスピードが激しく、特に経済的領域では国の垣根が劇的に低くなっている現在、人員整理が必要かどうかといった経営判断に裁判所が立ち入った介入をすべきではないと思いますし、解雇に至る前にできることを可能な限りやりつくした後でなければ解雇できない、というルールは、雇用関係の個別化が進展すればするほど法的ルールとしてはうまく機能しなくなるでしょう。 必要なのは、整理解雇について直接には責任のない労働者の雇用とキャリア形成をサポートすることですから、解雇後の一定期間について円滑な職業転換を支えるための金銭的保障を行わせることが適切だというのが東京地裁の意図だったと思います。

しかし、このような方向が実際に模索されるためには、アメリカのように「解雇されてから転職するまでの期間が短く、転職した先での賃金の方が解雇された会社でもらっていた賃金より高いことも稀ではない」というような外部労働市場の整備がなされることが前提となります。その見通しを立てるための政策を急ぎつつ、上記のような新しいルールを考えていくべきだと思います。

他方で、ドイツ、英国、フランスといった欧州諸国は、経営上の理由による「大量解雇」については、解雇する人数によって手続き規制と内容規制を加えるのが通常です。次回以降、こうした国際的視点も加えて議論を展開していければ、と期待しています。

長期雇用と整理解雇 (安藤)

野川さんの「脚注」を読んでいたら,なんだか私が学生として野川ゼミで報告していて,それを先生に採点してもらっているような気分になってきました(笑)。しかし面の皮の厚さと豊満なボディが自慢の私としては,そんなことは気にしません!

というわけで本日は,整理解雇はなぜ必要なのか,またなぜ現行法で許されているのかについて考えたいと思います。結論を先に言ってしまえば,整理解雇が可能であるのは,その方が結果的に労働者のためにもなるからというのがその理由です。しかし,この話に取りかかる前に,前回の野川さんの記述に関して私が納得できていないところが二点ありますので,それらを指摘しておきましょう。

まず一点目は「労使には本質的な不均衡があるので、解雇については法令や判例でいろいろな制約が課されてきました」という箇所です。このように「本質的な不均衡」に伴い発生しうる問題が仮にあるとしても,それは解雇に制約を課すことでしか現在でも是正できないものなのでしょうか。例えば,最近はインターネットの発達等により情報の透明化や流通が促進されたことで,企業における実質的な待遇やいわゆる「ブラック企業」についての情報などが手に入りやすくなったように思われます。このような時代変化や技術進歩に応じて,問題を解決する最適な手段も当然に変化しうるのではないでしょうか。そこで本日は無理ですが,解雇に制約を課すことの代わりに採りうる手段として,実際にどのようなものが考えられるかについても近いうちに検討したいと考えています。

二点目は「整理解雇が大問題となるのは、『なぜ解雇するのか』の理由が、労働者になく使用者にあるためです」という所です。私は前回の投稿でも述べたように,少なくとも企業業績に応じて増減するボーナスを受け取っている場合には,労働者も企業業績に一定の責任を負っていると考えています。極端な例を挙げるならJALのようなケースですね。

では早速本題に移りましょう。本日考えるのは,整理解雇についてです。これは定年までの長期雇用という約束の一方的な破棄であるのに,なぜ許されるのでしょうか。

まず注目して頂きたいのは,一般的に「終身雇用」という言葉が用いられることもあるのに,ここではより正確に「定年までの長期雇用」と書いている点です。しかし実はこれでもまだ不正確です。なぜなら,わが国では定年までの長期雇用契約というものが本当は結べないことになっているからです。これは民法の制約により,仮に労使が合意の上であっても,例えば「65歳の定年までは企業が雇い続けるし労働者も働き続けることを約束する,そして相手の同意なく途中で一方的な解約はできない」といった契約は結べないということを意味します。

定年までの長期雇用契約が結べないのはなぜでしょうか。それは歴史的経緯から,過度に拘束的な働き方になってしまうことを防ぐために,これを分かりやすくいえば債務などを理由とする奴隷労働などを防止するために,契約期間に対する規制が必要だと考えられていたからです。このような理由により,2004年に労働基準法が改正されて有期雇用の上限が原則として3年(例外5年)になるまでは,期間を定めた雇用契約は1年までとされていました。そして1年を超える長期の雇用は,期間を定めない契約という形で行われていたのです。

それでは期間を定めない契約とはどのようなものでしょうか。これは前回,野川さんが民法の原則として説明されたことですが,特に何もしなくても契約は自動更新されていくが,一定の条件の下では労使のどちらからでも一方的に解除できるというものです。このように一方的に解除可能であれば奴隷労働を防ぐことができそうですね。まあ実際にはいろいろと難しいところもあるのですが。

さて続いて,何らかの理由で,企業側が労働者に対して定年までの長期雇用を保障したいと考えた場合を考えてみましょう。これは例えば,その企業でしか使えない特殊な技能を得るための努力を労働者に要求したい場合や,労働者が収入の過度な変動を嫌う場合にリスクの大部分を企業が負担する保険契約を結ぶことで労使双方が得する場合,そしてキャリア形成の過程や労働時間,勤務地等を使用者側が一方的に決められる自由度が欲しい場合などが該当します。

このとき企業は,長期雇用保障を一方的に提示するのと同時に,労働者からの離職は制約しないことを選択するかもしれません。これを片務的長期雇用保障契約と呼ぶことにします。

ここで注意したいのは,使用者側が片務的長期雇用保障を提示するのは,企業が労働者に優しいからでも社会全体のことを考えているからでもありません。企業利益を最大にするという目的を達成するための手段を突き詰めて考えた結果としても,場合によってはこのような長期雇用が提示されうるのです。

このような片務的長期雇用保障契約は,1年までの有期雇用や,条件を満たせばいつでも契約解除ができる無期雇用としては実現できません。そこで,無期雇用と解雇権濫用法理(現在の労働契約法第16条),そして判例により形成された整理解雇法理の組み合わせにより,長期雇用が実質的に実現されてきたと理解できます。そして実質的に長期雇用を目的として利用されることが多い無期契約の場合には,正当な理由がない限り整理解雇が出来ないという整理解雇法理が使用者側からも必要不可欠なものだったのです。

ただし,まったく整理解雇が出来ないとなると問題があります。それは,人々の好みや時代の変化などにより避けられない人員削減が出来なくなってしまうことです。もちろん長期雇用を保障したのであるから,可能な限りは労働者に対して当人が出来る仕事を探して解雇を防ぐのは当然という考え方もあるでしょう。しかし,どうしようもない異常事態も起こりえます。

例えば,このままでは近いうちに倒産してしまい労働者全員が失業してしまうが,一定の労働者を解雇して身軽になれば復活可能である場合などにおいては,整理解雇を行った方が労働者全体の利益となります。なぜなら倒産により労働者全員が失業者になってしまい皆が同時に新たな職探しをするよりも,解雇を一部に留めることで同種の技能を持つ失業者が少ない方が再就職が容易になるからです。

また,そもそも整理解雇が不可能であるとするなら,使用者は最悪のことを見越した労働条件を提示するでしょうし,労働条件がなかなか改善しないことにもつながりかねません。そして企業にとっては労働者を雇うことの負担が大きくなるため,最初から少ない人数しか雇わないかもしれませんし,また仕事の一部を外国企業に下請けに出したり,人手を使わずに機械によって仕事を置き換えたりもするでしょう。これらはわが国の労働者全体の視点からも望ましくないことだといえます。

以上をまとめておきましょう。まず民法における本来の無期雇用とは,一定の条件の下で労使のどちらからでも契約解除なものでした。しかし実質的に長期雇用に用いられることが多かった無期雇用をより使いやすいものとするために,解雇権濫用法理と判例法としての整理解雇法理によりこれを修正しました。その際に,整理解雇が不可能だとかえって労働者全体のためにもならないので一定の条件(整理解雇の四要素)に基づく整理解雇は可能とされた,というのがこれまでの経緯といえるでしょう。

ここで昔と比べて産業構造の転換が早くなった現在の社会においては,裁判所がどのように判断するかについての予測が難しく,それにより企業が整理解雇に踏み切りにくい場合には,仮に裁判所の判断が明確であったなら生き残って労働者の一部を雇用し続けられたはずの企業が倒産してしまう可能性があります。このとき,労働者全体のためにも,どのような場合に整理解雇が認められるのかが経営者にとって明確に判断できるようになれば労使双方にとって有益だといえるでしょう。このような意図から,私は既存の契約に関しても,整理解雇の四要素は「合理化と明確化をすべき」と考えています。

ここまでは既存の片務的長期雇用保障契約について,なぜ整理解雇が必要なのか,また可能なのかを述べてきました。しかし新規の片務的長期雇用保障契約については,これまでのように無期雇用と解雇権濫用法理,そして整理解雇法理によって実現するのではなく,解雇要件を明記した片務的長期雇用保障契約を労使が直接的に締結可能として,これと解雇権濫用法理を組み合わせることで実現するべきだと私は考えています。この点については野川さんから頂くお返事の内容にもよりますが,可能ならば次回に議論したいと思います。

2011年1月27日木曜日

整理解雇ー最初の大問題 (野川)

さっそく大問題の登場ですね! これまで、労働法学者と経済学者とが雇用・労働にかかわる課題について検討した本は何冊もありますが、いずれについても整理解雇は中心的なテーマでした。
(安藤さんも参加された「格差社会と雇用法制ー法と経済学で考える」(福井秀夫=大竹文雄編著、日本評論社)では、安藤さんはじめ数人の経済学者が論じておられますし、「解雇規制の法と経済ー労使の合意形成メカニズムとしての解雇規制」(神林龍編著、日本評論社))は全体が整理解雇にかかわっていると言ってもよいくらいです)

さて、安藤さんのご指摘を読み、まず思い知らされたのは、法的課題について実によく勉強されていることです。私の経済学に対する素養が、それに釣り合うくらいあればよいのですが・・・

 それでは、整理解雇の法的意味について、安藤さんのご理解に特に修正すべき個所はないので、例によって脚注をつけます。
まず解雇は、法的に表現すると、「労働契約という契約を、使用者側から一方的に解約すること」です。解雇に対して、逆に「労働契約を労働者側から一方的に解約」するのが「辞職」です。そして、両者が合意して労働契約を解消するのが「合意解約」で、一般の「退職」がこれにあたります。(ここでは、期間を定めた有期労働契約のことは取り上げないこととします。ちなみに、当初定めた雇用期間が満了したのでそこで労働契約関係が終わる、という場合は「解雇」とは言いません。)

解雇と辞職は、民法上はどちらも対等に「自由」でしたが、労使には本質的な不均衡があるので、解雇については法令や判例でいろいろな制約が課されてきました。辞職は、民法の原則が今も生きていて、2週間の予告期間さえ置けば全く自由です。しかし解雇は、現在では労働契約法16条が、客観的に合理的な理由がなく、社会的に相当と認められない場合は無効であるとしています。

つぎに、解雇が通常、普通解雇と懲戒解雇と整理解雇に分けられること、及びそれぞれの内容については、安藤さんの整理の通りでまちがいありません。整理の仕方としては、「労働者側に原因がある解雇」と「使用者側に原因のある解雇」に分けて、前者に普通解雇と懲戒解雇、後者に整理解雇をあてることもありますね。

そして、整理解雇が大問題となるのは、「なぜ解雇するのか」の理由が、労働者になく使用者にあるためです。たとえば、ある労働者が、サボってばかりで与えられた仕事が全く進まない、という理由で解雇された場合は、明らかに労働者側に理由があるので、その解雇が上記労契法16条に照らして有効かどうかを判断するには、「その仕事のためだけに雇用するという契約だった」という場合を除いて、サボったことについて考慮すべき余地はないかとか、他の仕事に回す余地はなかったのかとか、会社も十分に諭して反省の機会を与えたのかとかいったことが検討されます。

しかし、整理解雇は会社の都合によって(多くの場合は経営上の危機)解雇するので、身に覚えのない労働者にとってはあまりにも不当だ、と受け止められます。労働者側に原因がある解雇でさえ、訴訟になればいろいろな事情が考慮されて「解雇までは認められない」という判断が下されることも多いのですから、何も悪いことをしていない労働者でも解雇される整理解雇は、全く認められる余地はない、ということになりそうです。ところが、そう言って整理解雇を認めないと、会社自体がつぶれてしまって 全ての従業員が路頭に迷うということになりかねない。
このような深刻な事情があるので、整理解雇については、上記労契法16条の判断基準をそのまま使うだけでは有益な解決がつかないのです。そこで、どのような合理的なルールがあるべきかについて、裁判所も学者も大変な苦労をしてきました。

・・・以上脚注でした。次はいよいよ「論争」になるかもしれませんね! 乞ご期待(?)

整理解雇とは何か (安藤)

前回,私は「正社員は既得権者なのか?」というタイトルで投稿しました。野川さんは,その内容を「正社員は確かに既得権を有しているが、それは十分に合理的な理由のあることであって、それを奪うには原則として意を尽くした説明と合意形成が必要であり、それもかなわないときは一定の対価の支払いが保証されるべき」と要約し,その意味であるなら(いくつかの注意点はあるものの)異論はないというご意見でした。

それを読んで私はとても安心しました。私たちは互いの理解を深めることを目的としてこのBlogを開設しているので,仮に意見の相違があってもまったく問題はないのですが,とりあえず出だしは好調のようです(笑)

さて頂いた三つのコメントは,すべて理解できますし同意します。例えば一点目の「正社員」については,今後は言葉の使い方に注意する必要があるという意味でも,とても勉強になりました。ただし三点目については,より丁寧な切り分けと説明が経済学の視点から可能ですし,また必要であるとも感じています。しかし,まずは整理解雇の意味を理解しておくことが,話を先に進めるためにも必要でしょう。

前回の投稿において,野川さんの言葉を借りれば,私は「正社員は確かに既得権を有しているが・・・それを奪うには原則として意を尽くした説明と合意形成が必要」であるという主張をしましたね。しかし,それならば企業(正確には使用者側というべきです)が労働者を一方的に解雇する整理解雇とは,長期雇用の約束を破る行為であり,許されないものではないかとの疑問を持った読者もいたはずです。そこでこのエントリでは, まず,整理解雇とは何かという点を整理しておきましょう。もし以下の私の記述に誤解があれば,すぐに野川さんから訂正が入るはずです(笑)

解雇には,懲戒解雇,普通解雇,そして整理解雇があります。まず懲戒解雇とは,あらかじめ就業規則で定められた懲戒事由に該当する行為を労働者が行った場合に行われる解雇を意味します。

次に普通解雇とは,何らかの理由で労働者がこれまで通りに仕事を続けられない場合に行われる解雇を指すものです。例えば犯罪行為により当該労働者が刑務所に入ってしまった場合には仕事を続けられませんね。また何らかの理由で労働者がやる気をなくしてしまったときに,上司や周囲の人が真摯に当人に向き合って話し合ったとしても,そして負担の少ない仕事への配置転換などさまざまな手段を講じたとしても,やはり状況が改善されないとしたら,これも仕事を続けられない場合に当てはまるでしょう。

そして整理解雇とは,時代の変化や技術進歩,そして消費者の好みの変化等の理由で,これまでの仕事がなくなってしまった場合に行われる解雇です。例えば特定の事業分野からの撤退や工場の閉鎖により,これまで企業が雇っていた労働者が不要になってしまった場合などを想定すれば良いでしょう。

普通解雇と整理解雇の分かりやすい判別方法は,解雇が行われた後に後任が雇われるかどうかを見ることです。例えば,ある労働者が解雇された後に,その人が担当していた仕事が残っている場合には後任が雇われるでしょう。これが普通解雇です。一方で,仕事がなくなったことが理由で解雇されたのなら,後任は雇われませんね。

また懲戒解雇や普通解雇は労働者側に(も一定の)責任があるのに対して,整理解雇は労働者側には責任がない,言い換えれば労働者は悪くないのに解雇されることだと理解されるのが一般的です。

ただし,日本では企業別の労働組合が多く,このとき労働者も企業業績に対して一定程度の貢献と責任を負っているという考え方もあります。例えば労働者がボーナスという形で企業の利益の一部を受け取っている場合には,「経営状態の悪化は経営者の判断ミスであり,労働者は完全に無関係である」と考えて良いとは限りません。

今回のエントリで私が述べた「整理解雇」の理解に問題がなければ,続いて,整理解雇とは長期雇用契約という約束の一方的な破棄であるのに,なぜ一定の条件の下で許されるのかについて考えることにしましょう。

2011年1月26日水曜日

「正社員」という法的地位はない (野川)

安藤さん、第一球ありがとうございます。なんだか、打ちやすいように配慮していただいたような…

まず、解雇をはじめ、労働契約関係全体に対する法的ルールの在り方を考え直さなければならないという問題意識は共有していると思います。短期雇用を繰り返し、一般に低賃金でキャリア形成の機会が少ないという「非正規労働者」と、長期雇用とキャリア形成の機会を享受できることが普通である「正規労働者」の二分法を改めようという機運は政策の対応にも見えるのですが、どのような方向があるのかについて共通認識がないようですね。 政策にも深く関与しているある労働法学者は「中期雇用」という概念を提示していますが、これもそうした状況における一つの試みだと思います。

さて、 安藤さんの見解のポイントを、「正社員は確かに既得権を有しているが、それは十分に合理的な理由のあることであって、それを奪うには原則として意を尽くした説明と合意形成が必要であり、それもかなわないときは一定の対価の支払いが保証されるべき」というように理解してよろしいでしょうか? そうだとすると、私としては、いわば「脚注」を付するくらいで異論はありません。しかし、まさに「脚注」が大切かもしれないので以下に簡単に記します。

第一に、正社員という法的地位はありません。世間一般には、正社員とは、学卒新規採用で期間の定めのない労働契約により雇用され、企業の中心的なプロモーション(昇進・昇格によりどこまでも出世可能)のラインに乗っている人たちをイメージしているようですが、法令上は、正社員と非正規従業員という区別をすることはないのです。
たとえば、労基法は正社員だろうが有期雇用労働者だろうがパート労働者だろうが、もっと言えば学生のアルバイトにも適用されますし、労組法に至っては雇われていない人でも、一定の要件を満たせば適用されます。したがって、正社員に既得権があるとしたら、それには特別な法的根拠はないのであって、企業社会が作り上げた慣行に過ぎないのです。
ですから、全く正社員というイメージに合わない雇用をされている人が正社員のイメージに合う雇用をされている人より優遇されても一向構わないし、労使で自由に雇用形態を合意してよいのです。たとえば、一日6時間働く人が、一日8時間働く人の上司になったり、3年の有期雇用を繰り返している人が部長になっても問題ない。
要するに、正社員の既得権は、それが法律で直接保護されているものでない限り(繰り返しますが、法律は「正社員」だからという保護の仕方はしておらず、労働者なら対等に保護しています)、労使の合意さえあれば自由に「奪って」よいのです。

第二に、解雇権濫用法理(労契法16条)や整理解雇法理(これは法律には書いておらず、裁判所が判決を積み重ねる中で作られた「判例法理」ですね)は、確かに一般的にイメージされる「正社員」を守っているように見えます。しかし、それも、まさに安藤さんがご指摘の通り、そして私も著書やツイートで指摘しているように、契約によって正社員は長期雇用を享受し、その代り過酷な指揮命令によって過労死の危険まで引き受けて働いているという実態が背景にあります。私の言葉でいえば、「雇用保障(及び相対的高賃金)と強大な人事権への屈従(過酷な長時間労働、辞令一本での家族を引き裂く遠隔地配転、etc)」の取引が行われているので、有期雇用労働者や一部のパート労働者(パート労働者の中には、正社員とほとんど代わらない地位にある人も少なくない)に比べて、雇用の安定や相対的な高賃金が正当化されるのです。したがって、一見正社員の「既得権」と見えるのは十分に合理的な理由があるので、これを法的に奪う措置を施すとすれば、この合理的理由を凌駕するよほどの説得力ある根拠が必要ということになります。(これはもちろん、現在のそのような正社員の立場が望ましいということではありません)

第三に、それでは現在の正社員の「既得権」を法的に奪うことを正当化するような根拠がありうるか、ということになりますが、 そこは安藤さんのご指摘通り、若者の雇用を拡大するために年長者の早期引退を促す(フランスではかなり本格的に取り組まれましたね)とか、企業経営にもう少し柔軟性を持たせるために解雇の金銭解決制度を設ける、といった提案がなされる可能性があります。しかし、そうした対応がなされれば大きな不利益を余儀なくされる人々が生じるのであって、仮にそのような提案が検討される場合には、年長者の職業人生を他で生かせる場の確立や、転職市場の充実・拡大と転職によって労働条件は下がらないという可能性の確立など、非常に難しい対応策が必要となるでしょう。

なお、整理解雇の四要素については、私にも腹案がありますが、また項を改めて議論いたしましょう。

2011年1月25日火曜日

正社員は既得権者なのか? (安藤)

2011年3月末に卒業予定の大学生の就職内定率が,12月末時点で68.8%であることに注目が集まっています。また最近,わが国の労働法制はこのままで良いのかといった議論が多方面で展開されています。

さて労働法制を考える際には,やはり解雇規制のあり方についての議論は避けられません。しかし一部では解雇権の濫用と整理解雇法理の関係がクリアでないまま行われる乱暴な議論もありますし,また既存の労働契約とこれから新たに結ばれる労働契約とを分けて議論されていないこと等も見られます。

新規の雇用契約に関しては,私は現在のように原則3年までか,または定年までの長期かという二択を続けることには問題が多いため,これをより多様化させるべきではないかと考えています。しかし本日の話題は,既存の長期雇用契約についてです。

最近,正社員は既得権者であり,賃金に見合った貢献をしていない場合が多いため,その解雇を容易にすべきだという趣旨の発言を良く見かけます。ちなみに私も以前は「現在の正社員はこの点から言えば既得権者」だと書いてしまいましたが(http://lab.arish.nihon-u.ac.jp/munetomoando/nikkei061212.html),現在では,現行の法制度の下で実質的な長期雇用契約を結んだなら,原則としてこれを守るべきだと考え方を改めました。なぜでしょうか。

まず注意が必要なのは,正規と非正規の違いは賃金の差だけではないということです。正規雇用には,それに付随して,非正規にはないさまざまな義務や不自由等があります。例えば職種の変更や転勤を伴う勤務地の変更,そして三六協定の下での残業などについて,使用者側が実質的な決定権を持っていることなどは考慮しなければなりません。

ここで言いたいのは,既存の正社員は何かを対価として差し出したからこそ既得権を得ているということです。それなのに正社員を既得権者だと安易に糾弾すること,また契約にあったはずの雇用保障をいきなり取り上げようとすることには正統性がないと考えます。

例えば土地の収用について考えてみてください。財産権は保護されるべきであり,これが原則です。しかし例外として,社会全体のためにどうしても必要であれば適正な対価を払うことで土地が収用される場合もあります。

雇用契約についても同様の考え方をすることが自然だと思うのです。既存の契約は原則として保護されるべきであるが,しかし社会全体のために一部を取り上げることが真に必要となるかもしれません。ただしその際には,意を尽くした説明・説得と一定の対価の支払いが行われるべきではないでしょうか。

繰り返しますが,原則と例外の関係が重要なのです。例えば社会全体のためには,これから長い労働人生が残されている若年層に就労による技能形成のチャンスを与えることが有益だと思われます。このとき,何らかの対価を払って年長者に席を譲っていただくことが必要になるかもしれません。しかしそれは強制的に実施されることを前提とするのではなく,あくまで合意に基づく取り組みとして実施できないかを先に検討すべきでしょう。

なお既存の雇用契約に関して,私は整理解雇の四要素(要件)について「合理化と明確化をすべき」だと考えていますし,池田信夫さんとの会話の中でもそのように発言しています(http://togetter.com/li/90352)。その理由については別のエントリで議論したいと思います。

面白くてためになる…かな? (野川)

エネルギッシュで行動の早い安藤さんと意気投合し、法学者と経済学者とが、雇用・労働問題について、わかりやすくて論点のクリアーな議論をする場を設定することになりました。マイペース(アワペース?)で進めていきたいと思います。こうご期待・・・かな?

Blogを始めます (安藤)

本日,明治大学にて野川忍さんと相談した結果,労働問題や政策について議論できる場を作ろうということになり,共同でBlogを書いてみることにしました。

このスタイルはThe Becker-Posner Blogの真似ですが,さてどうなるかな?