2011年10月14日金曜日

法学は自己の守備範囲を明確にする(野川)

安藤さん、拙著を本当に丁寧にお読みいただき、恐縮です。ご批判に、できるだけ簡潔にわかりやすくなるようお答えしたいと思います。

まず、労働法は出発点として、労働者と使用者という関係に立つ両当事者が展開する社会関係のうち、法的に問題をとらえうる領域を対象として、その合理的なコントロールを模索するという前提があります。そのうえで、いわゆる労働市場の動きについて妥当な範囲と方法で、法の適用対象となる人々が十全に能力を発揮して職を得ることができるようにすることを目的とした法的介入を行うことや、高齢者の生活を安定させるために職業生活からの引退過程をサポートすることなど、法学的方法で対応可能な領域を徐々に拡大しています。

要するに、労働法は労働関係をめぐる諸問題をすべて掌握して全的な解決をめざす、などということは前提としていません。労働法の守備範囲は、法的コントロールが可能な対象を限定したうえで、法の装置を用いた手法によって対応可能な問題を解決しようとするものだということであり、その自己限定は非常に明確です。

この前提から言えるのは、たとえば労働者と使用者との関係について対応する場合でも、労働法は、法的に見て発生することが一般的であるとみなせる問題を対象としてその解決をはかる装置を考えるという方法をとることになります。

たとえば、安藤さんが提示している例は、経済的なモデルケースとしてはおっしゃる通りのことが言えるでしょうが、実際の現場では、労働者も使用者も、提示されているような合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生します。 特に現在では、悪質なベンチャー企業も多く、2年だけ会社を立ち上げてその間全く長期的展望を持たずに徹底的に労働者を搾取しまくり(とりわけ今のような時代なら、2年程度はどれほど不合理に搾取されても黙って働く労働者を雇うことに事欠かないでしょう)、すみやかに会社をたたんでしまって一応の資金だけ得て、あとはあまり危ない橋をわたらずに会社経営を行う、ということは珍しくありません。

こうした事態が生じるのは、やはり総体としてみれば労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ないからであって、19世紀の工業国と21世紀の日本とで本質的な違い(雇われる立場の者が雇う立場の者に対して上限関係と支配関係に立つという事態の本質的な変化)は、少なくとも事実としては見えてこないのではないでしょうか。そして、そうだとすれば、雇用をめぐる社会関係において、事実として生じやすいトラブルを対象として一定の規制を加えることは合理的であろうと思います。

この観点から、具体的なご質問にお答えします。
まず、契約内容が使用者によって左右される、多くは使用者が一方的に決定することになる、とは一概にいえない、という点ですが、まさにおっしゃる通りです。労働法は、事実としてそのような事態(使用者による契約内容の一方的決定)が一般的に観察しうる限りで、必要な範囲で法の装置を用いた介入をしようということであり、実際に対等性が確保されている場合にはそれを尊重した対応をしています。具体的には、特に労働契約関係を対象として、契約内容が使用者によって一方的に決定されている場合に適用されるべきルールを作っています。
注意していただきたいのは、「労働関係においては使用者が労働者に対して労働契約内容を一方的に決定しているので規制する」のではなく、「使用者が労働者に対して一方的に契約を決定する立場に立っていると認められる場合には法的コントロールを行う」のです。

つまり、事実として、労働関係においては使用者が一方的に契約内容を決定する立場に立ちやすいということが認められるので、実際にそのような一方的決定がなされている場合に適用されるルールを作る、ということであって、労働関係であればいつでも使用者を規制する、というわけではありません。たとえば、まさに零細企業で労働者と使用者が実質的にも対等平等に労働契約を締結し、かつ内容の決定もしているとみられる場合は、結果的に通常の契約と同様の法的対応がなされます。

おそらく、誤解が生じやすいのは、労働基準法のような法律が労働者を保護する規定を置いているからだと思いますが、これも、労働者が労働関係において使用者の一方的な行為により人権や自由や健康や安全といった基本的権利を侵害される事態が事実として広範に生じてきたので、「使用者が実際にそのような行為をした場合には」規制するということにとどまります。

労働基準法の守備範囲は、命や健康など人間としての最低限の尊厳を侵されることを阻止しようとするだけで、そこまでいかなければ、かなり使用者が横暴であっても関知していません。 たとえば一日の労働時間は8時間を超えてはならないというのも、使用者が労働者を「働かせる」時間が8時間以内でなければならないと言っているだけであって、労働者が自由な意思で働く時間は全く規制されていません。人間が他者を命令によって労働させるという関係にあるとき、その労働時間を、命や健康が侵害されない範囲にとどめるよう法が規制するということに違和感があるでしょうか。

次に、労働力が売り惜しみできない、という点は、少し誤解があるようです。この意味は、骨董品と労働力を比べるとよくわかります。骨董品は、一般的には、売り惜しみしても価値が減じないだけでなく、むしろ高くなることが通常でしょう。しかし労働力は、使わなければどんどん劣化していく商品です(人間の体と頭に蓄積されたノウハウや勘や労働の活力は、使用されなければ失われるだけです)。確かに、他に買い手があればよいでしょうが、すみやかに見つからなければ劣化は進みます。つまり、「今売る」ことに価値があるので、労働者としては言い値で取引せざるを得ない状態に陥りやすいのです。

さらに、労働法は大企業か零細企業かという区別をかなりしてきました。最長労働時間を短縮するときも、10年間をかけて、大企業にはかなり早い段階で規制をかけ、中小企業や零細企業にはギリギリまで施行を延ばして十分に対応できるよう入念なサポートをしてきましたし、65歳までの雇用を義務付けている高年齢者雇用安定法も、中小企業については今年の3月末まで経過措置を設けていました。また、解雇などが訴訟になった折には、当該企業の規模や経済状況などを十分に考慮した判断枠組みにより結論が出されますので、実際に企業規模で不当な結果が生じるような法的事態はごく少ないはずです。

最後に、これは個人的な印象ですが、法学と経済学の相違の一つとして、法学は非常に自己を限定しているという点があると思います。以上に縷々述べましたように、労働法も、実際に労働者が使用者との関係で不当な事態を甘受させられることが多いという具体的現実から、帰納的に、「労働契約関係において生じうる不都合な事態を類型化し、実際にそのような事態が生じたおりには対応できる仕組みを整えておく」というスタンスをとっているのであり、非常に謙抑的です。 

法学者は、「法学がわかれば世界がわかる」などとは決して言いませんし、法学的理解をすべての社会現象に適用しようなどとも思っていません。 しかし経済学者の中には、確かに一定の層として、「経済がわかれば世界がわかる」、「社会現象は経済学を適用してほぼ解決の見通しがつく」と考えている向きがありますね。それは学問自体の性格の相違にもよるのかもしれませんが、なぜそうなのかが理解できれば、法学と経済学の、表面的ではない相互理解・相互協力も進むのではないかと思います。

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