2011年11月1日火曜日

労働者には合理的な判断力がないのか (安藤)

丁寧なお返事を頂きありがとうございます。2週間ほど空いてしまいましたが,以下では,野川さんからのコメントに対する私の考え方や残されている疑問点について順に説明していきます。

1,労働者には合理的な判断力がないのか
まず「労働法は、法的に見て発生することが一般的であるとみなせる問題を対象としてその解決をはかる装置を考える」という点について,労働法学がこのようなアプローチを採っていることは理解しています。そして「事実として生じやすいトラブルを対象として一定の規制を加えることは合理的」ということも承知しています。

ただし,どのような規制がなぜ必要だと考えるのかについては,いまだにその根拠に納得できていません。この点を明確にするために,労使間の交渉力の格差について野川さんが述べている部分を採り上げて考えてみましょう。

まず野川さんは
「たとえば、安藤さんが提示している例は、経済的なモデルケースとしてはおっしゃる通りのことが言えるでしょうが、実際の現場では、労働者も使用者も、提示されているような合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生します。」
と述べた後で,
「やはり総体としてみれば労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ない」
と結論付けていますね。

ここで労使に格差があることの原因として,合理的な選択をしないことが挙げられていることに注意してください。ここで「合理的な選択をしない」とは,例えば年収300万円という待遇で仕事をしていた労働者に対して,他の条件は一定のままで仮に年収500万円を提示したとしても,転職する(または現在の雇用主へ待遇改善の申し出を試みる)ことをしない人が存在するといったような意味ですね。

これは本当でしょうか。また合理的な判断ができない人が存在していることはそのとおりだとして,誰にどのような判断力の欠如があると労働法学では考えているのでしょうか。この点を明確にする必要があると感じました。

なぜなら国家による契約内容への介入や労働組合の結成を認めることが必要な理由として総論第1章で述べられていたのは,あくまで交渉力の格差であり,判断力の欠如ではなかったからです。

もちろん私も,すべての労働者が合理的に判断できる能力を常に維持していると主張したいわけではありません。例えば長時間労働に対する規制に関して,2007年に書いた新聞記事では「一方で、退職という合理的な判断ができなくなってしまった労働者の保護も考えるべき」と述べています。

しかしすべての労働者があらゆる事柄について合理的に判断できないというのも間違いですね。実際は,ほぼ合理的な判断が可能な領域もあればそうでない領域(例えば中毒が発生すると適切な判断ができないでしょう)もあり,またその程度は人によって異なると思われます。このことを前提とすると,法制度設計の際には,人々の自由意思による決定に介入することの弊害を理解した上で,データに基づく適切な水準の規制が求められます。また規制をするだけでなく適切な判断ができるような情報提供を行うことも有益なはずです。

野川さんは,労働者の判断能力についてどのようにお考えでしょうか。

2,契約内容は使用者が一方的に決めるのか
次に,労働条件を使用者が一方的に決めている場合には法的コントロールが必要という点についてですが,一方的に決めるということの意味が不明確だと感じました。なぜなら,仮に労働条件を使用者側が設定できるとしても,労働者側にも受け入れるか拒否するかの選択が可能だからです。つまり「一方的に決める」のではなく「一方的に決めた内容を提示して,選ばせる」というのが実態ではないでしょうか。

例えば私たちがスーパーで商品を買う際には,多くの場合は相対で交渉するのではなく,店舗側が値段を決めます。そして消費者は買うか買わないか,または他店舗で買うかといった選択をします。このとき売買の契約条件を売手側が一方的に決めているから直ちに問題だと言えるのでしょうか。

私はそうは思いません。このような価格付け方法は,個別の相対交渉にかかる費用を削減するために選ばれているだけであり,スーパーが当該地域において独占や寡占でないかぎりは問題とはなりません。

確かにこのケースでも,スーパーの客が合理的な判断をできないことを前提とすれば,規制や介入が必要と言えるかもしれません。しかし値段が高ければ買い控えをするというのは,多くの客が日常的に行っている合理的判断です。だからこそスーパー側も相場を超えた極端な値付けは行わないのです。

したがって,より条件の良い職場へ転職するといった程度の合理的判断ができる労働者については,仮に使用者が一方的に労働条件を提示したとしても問題はないように思います。例えば平成18年度転職者実態調査を見ると,「会社の将来に不安を感じたから」とか「労働条件(賃金以外)がよくなかったから」など様々な理由で人々は転職していることが分かりますが,この人たちは十分に合理的な判断をしていると言って良いのではないでしょうか。

3,労働基準法の守備範囲について
「労働時間を、命や健康が侵害されない範囲にとどめるよう法が規制するということ」には違和感がありません。医学的なデータに基づく労働時間規制は必要です。しかし残念なことに,労働時間規制が実際にそのように制定運用されているとは思えません。

我が国で行われているのは,36協定があることを前提として,8時間を超えて働かせる場合には残業代を支払うことを定めるのみです。これで命や健康を守るという目的が達成されているのでしょうか。

また労基法は長時間働かせることは禁止しているが,労働者が長時間働くことは禁止していないとのことですが,労働者に判断能力が欠けていることを労働規制の前提とするならば,仮に本人が長時間労働を望んだとしても,後者こそを規制すべきではないでしょうか。

さらに言えば,合理的判断ができない人の健康を守るために必要や規制の水準は不変ではないはずです。昔の炭坑労働と比較してデスクワークが中心のホワイトカラー労働者などでは労働負荷の内容が異なります。時代や働き方の変化に応じて適切な規制の修正が必要だと考えますが,それも実現していないように思われます。

4,労働力が売り惜しみできないという点について
この部分について私が言いたかったことは,特定の相手との間での取引を現時点で行うことに価値があるという点に関しては,労使で対称的だということです。最善の取引を行わず次善の選択をすることにより,取引から生まれたはずの利益が毀損するという意味では,使用者も売り惜しみできないのです。そして場合によっては使用者側のほうが失うものが大きいということを説明しました。よって売り惜しみできないことが理由で,労働者としては「言い値で取引せざるを得ない」とは言えないと考えています。

この点に関しても,もちろん使用者は合理的な判断ができるが労働者にはできないことを前提とすれば,言い値を受け入れてしまうかもしれませんが,労働者にはそこまで判断力がないのでしょうか。

5,大企業と零細企業の区別について
「当該企業の規模や経済状況などを十分に考慮した判断枠組み」について私が疑問に思っている点は,労働法は最低限の基準を定めるという観点からは,企業規模は考慮してはいけないのではないかということです。また大企業に対しては条件を厳しくしてしまうと,大企業にならない方向にバイアスをかけてしまう点にも注意が必要ですね。

6,法学と経済学の相違について
野川さんは
「法学者は、「法学がわかれば世界がわかる」などとは決して言いませんし、法学的理解をすべての社会現象に適用しようなどとも思っていません。しかし経済学者の中には、確かに一定の層として、「経済がわかれば世界がわかる」、「社会現象は経済学を適用してほぼ解決の見通しがつく」と考えている向き」
があるという指摘をされていますが,これはおっしゃるとおり学問の性格によるものでしょう。

経済学では,実証的(positive)な分析と規範的(normative)な考察の両方を行います。前者は,人々の意思決定や取引行為等に関して考察することを通じて,世界がどうなっているのかを知ることが目的です。また後者は,世界がどうあるべきかについて主張するための取組みです。

よって「経済がわかれば世界がわかる」というのは,現状ではそこまでは実現していないにせよ,経済学が世界を分かるために様々な取組みを行っているというのは間違いではないと考えます。また「ほぼ解決の見通しがつく」というのも,すべての社会問題を考えると現状ではまだまだ達成されていないわけですが,解決の見通しをつけるための取組みが着実に行われているのも事実だと思います。

一方で法学については,そもそも法律とは世界を上手く動かす技法であり,その適切な設計と運用を考えるのが法学だと私は考えています。

似たような例を挙げるなら,物理学では世界がなぜこのようになっているのかを理解しようとしていますが,これに対して工学では様々な現実の問題解決の手法が実戦的に検討されていると思います。野川さんの指摘された点は,このように法学と経済学でも目的や手段が異なるということではないでしょうか。

以上,長くなりましたので今日はここまでにします。気長にお待ちしておりますので,どうぞ他のお仕事等に差し支えない範囲でお返事を頂ければ幸いです。

3 件のコメント:

  1. aleksandr nikolayevich2011年11月6日 2:04

    いつも興味深く拝読しております。以下少し長いかもしれませんが、コメントさせていただきます。

    本エントリの安藤先生のご指摘――「労使に格差があることの原因として,合理的な選択をしないことが挙げられている」というのは、野川先生の論旨からすると原因と結果が転倒しているように思います。
    野川先生は、「労働者が合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生」するという現実(結果)から「やはり総体としてみれば労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ない」という評価(原因)を導き出しているのであって、「労働者が合理的な判断をしない(できない)から(原因)、労使の間に格差が生じている(結果)」とおっしゃっているのではないと思います。
    なので、この後の(より良い条件が提示されてもそれに乗らないような)不合理な労働者像を提示して行われる労働者の判断力についての議論も、野川先生の論理からすれば的を外している、というかかみ合っていないという印象です。
    野川先生がおっしゃっている「合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生します」というのは、安藤先生が提示しているような契約モデルの枠内での話ではなく、日本の労働現場・労働市場が抱える種々の問題も含めた現実の中での話なのだと思います。
    世の中には、低賃金で、残業代も出ず、有給も与えられないような職場でも働き続ける人はたくさんいます。傍から見れば今よりマシな条件の職場はたくさんあるはずだけれども、それでも転職に踏み切れない人達がいます。その人達だって、確実に入社できる年収500万円(もちろん法令を順守する企業であるとします)の職場が提示されれば、ほぼ確実に転職するでしょう。しかし、現実にはそんなオイシイ事態はほとんど起こりません。生活費の蓄えの問題、転職活動がうまくいかなかった場合の失業リスク、うまくいってもまたブラック企業に入ってしまうような可能性、年齢的な問題等々、現状維持の選択を取らせる要因は多々あります。
    これは安藤先生が提示するような「判断力の欠如」で片づけられる問題ではなく、労働者のよって立つ基盤の脆弱さ、そしてそれから出来する労使の交渉力の格差の問題なのではないでしょうか。
    もちろん、この場合、労働者の脆弱さ、交渉力の格差を改善するためには、単に労基法による保護だけに頼るのではなく、労働市場の改革や不合理な雇用慣行を是正していくことが必要です。ただ、どこまで行っても、経済学が想定するモデルのような麗しい労働市場は難しいと思いますので、労基法による保護はやはり必要になるだろうとは思います。当然、環境が変われば労働者保護の在り方も変わるでしょうが。
    おそらく、安藤先生は意識的に、問題を切り分けて単純化したモデルで論理を組み立てておられるのだと思います。政策的な解決策を導き出すためにはそれは必要な手段だと思いますが…。

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  2. コメントありがとうございます。

    まず私の主張は「合理的でない人がいるから非対称である」というものです。より丁寧に書けば,「使用者は合理的だが労働者は合理的ではないため,判断力の面で非対称であり,これが交渉の非対称を通じて社会的に望ましくない結果をもたらす。よって仮に当事者たちが合意した内容であっても,その合意は判断力の欠如に基づくものである可能性があるため,一定程度の制約を課すことが必要である」といった内容です。

    これに対して,頂いたコメントでは私が原因と結果を取り違えているということですが,そうなると「交渉力が非対称だから非合理的になる」ということになってしまいます。これは本当でしょうか。どのような理屈でそうなるのかが理解できないので,もしよろしければもう少しご説明頂けませんか。

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  3. aleksandr nikolayevich2011年11月7日 2:58

    ご返信、ありがとうございます。

    そもそも安藤先生の議論は、野川先生の論理を捉えて、それを援用するとこうなりますが本当でしょうか?という議論の進め方をされていますよね?
    野川先生の「実際の現場では、労働者も使用者も、提示されているような合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生します。 (中略)こうした事態が生じるのは、やはり総体としてみれば労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ないから」という部分を捉えて、先生の論理を援用すると規制の根拠は「使用者は合理的だが労働者は合理的ではないため,判断力の面で非対称であり,これが交渉の非対称を通じて社会的に望ましくない結果をもたらす。よって仮に当事者たちが合意した内容であっても,その合意は判断力の欠如に基づくものである可能性があるため,一定程度の制約を課すことが必要である」という論理になるが、これは本当でしょうか、という議論をされていますよね。それは全くその通りに安藤先生のご主張は認識しているつもりです。
    そのご主張が野川先生の論理を捉え損なっていると思うのです。
    1)まず、上記の野川先生の引用部分では「労働者も使用者も」と記載されておりますので、「使用者は合理的だが労働者は合理的ではないため」という前提は引き出し得ないはずです。上記の文言によれば、使用者も合理的な選択をしない結果となる事態があるということになりますから。
    ただし、ここでの「合理的な選択」というのは、野川先生がその枕詞に「提示されているような」という文言をつけていることを勘案すれば、ここで言われているのはあくまでも「経済的なモデルケース」上の合理性ということです。経済モデルからすれば、市場価格からかなり外れた(低い)価格で労働力を買おうとすれば、当然、労働者はより適正な価格を提示する職場に逃げて行ってしまうので、合理的な経営者ならばより市場価格に近いところで双方の落としどころを探るはずです。しかし、野川先生が指摘しているのは、実際の現場では、そのような経済モデル上の合理的な計算を行わなくても(適正価格に近付けなくても)、労働力を買いたたける事態が発生しているということです。現実の企業活動からすれば、安く買いたたけるものを安く買いたたくというのは極めて「合理的」な話ですが、経済モデル的に言えば、(安藤先生の例を一部拝借して)Y社がAさんに年収200万円しか提示しなかったり、AさんがY社に年収200万円で買いたたかれてしまのは非合理というほかないでしょう。もっともお互いがその条件で納得するなら、それが適正価格だし、合理的なのだと言うこともできるでしょうが。
    2)安藤先生の引用では省かれていますが、野川先生は「労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ない」と書く前に、「こうした事態が生じるのは」と書いているはずです。「こうした事態」というのは、「悪質なベンチャー」の経営手法と「不合理に搾取されても黙って働く労働者」の存在ということになるかと思いますが、そこに「こうした事態が生じるのは」と続けば、その後段はその事態が生じる原因について述べていると考えるのが適切な読み方ではないでしょうか。野川先生は「労働者と使用者の間には格差があり、こうした格差が生じるのは、不合理に搾取されても黙って働く労働者が存在するためだ」という議論の進め方はしていないはずです。
    正確に言えば、野川先生は上記の議論の部分では、まだ何故格差が現在も存在するのかは具体的に説明はしていません。昔と本質的には変わらず格差が生じていると判断しうる事例を提示しているだけです。これはすなわち、「悪質なベンチャー」の経営手法と「不合理に搾取されても黙って働く労働者」が併存しうるのは、やはりまだそこに交渉力の格差が存在しているからだと評価しうるという主張をしているのみということになります。
    その意味で、野川先生が上記で主張されているのは、「あくまで交渉力の格差であり,判断力の欠如ではなかった」はずです。

    と、すみません、安藤先生の質問まで至りつきませんでしたので、その点についてはまた後日。明日も朝から仕事なので…。また、野川先生、かなり私の主観的な読みも入っているかと思いますので、正しい理解でなかったら、申し訳ないです。

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