2011年11月9日水曜日

合理的選択になじまない労働契約の構造

安藤さん、ご丁寧な指摘をありがとうございます。やはり、こうして指摘をしていただくと、説明の工夫や自分の発言のいたらない点などにあらためて注目することができるので、対論は有益ですね。

1.合理的判断について
まず、労働者に合理的判断力がないのか、ということですが、これについては、私が悪質なベンチャー企業の例をあげて「労使とも合理的選択をしない場合がありうる」と指摘した点が問題となっています。

私が言いたかったのは、労働者が合理的判断ができないという意味ではなく、労働契約という契約が、当事者の合理的判断を、少なくとも売買やリースのようには徹底させえないような性格を内包している、ということです。つまり、市場における人間の行動を法的に秩序付けるのが「契約」というものなのですが、労働契約は異質な特性があるということです。

少しだけ「そもそも論」を許してください。 まず、人間は当然ながら「合理的行動」をすることが目的で生きているわけではなく、「快」を求めて生きています。それぞれの個体が、自分にとって心地よいことを実現しようとして生きています。それを基本的人権として認めたのが憲法でいう「幸福追求権」 です。そして憲法は、人々の快を求める行動が互いに衝突しあう「社会」を整序する方法として、「私的自治」という理念を提示しています。これは、市民が互いに自分の幸福と他者の幸福を確認し合って、譲るべきところと主張すべきところを合意するというやり方により、「自らの幸福追求の範囲を確保し、限界を画定する」ということです。 その最も効果的な方法が「契約」だというのは、長い歴史の中でほぼ一致して了解されているところでしょう。契約は、自分の利益と相手の利益とを合意によって調整するので、そこでは合理的な計算、予測が最も役に立つ手段となります。


ここで大切なのは、合理的な判断や行動は、それ自体が目的ではなく、自分の利益・幸福を実現するための「手段」だということです。したがって、別に合理的に判断しなくてもそれらが実現できるなら、あえて合理的判断による必要はありません。

労働契約という契約は、どの法系においても、出自を奴隷制度や徒弟制度に負っています(たとえばアメリカの雇用関係の判例には、よく「master & servant」とというタイトルがつけられていました)。当事者の一方が相手の命令に服従して相手の利益実現のために行動するという形態は、まさに奴隷や徒弟の働き方を示していますね。資本主義と市場経済が一般化していく近代においては、それが「指揮命令に服して労働すること」と「報酬を支払うこと」の対価関係を軸とした「契約」として再構成されました。しかし、やはり「相手に服従して働く」ことで相手からお金をもらうという「合意」とそこから生じる実態は、双方の間に単に仕事の上ではない人的な上下関係を生じがちであることは争えないでしょう。労働契約は、「委託契約」や「請負契約」など、相手のために自分の労働力を提供するという意味では共通する他の契約類型と異なって、「相手の命令に服する」という点が特徴なのですから。

さて、この基本的実態に加えて、一般的に労働者と使用者との間にみられる経済的格差や、労働力は売り惜しみができないという実態から、「互いの利益を合意により調整する」という合理的判断が必ずしもなされない事態が生じます。前回示したベンチャー企業の例では、使用者は、とにかく徹底的に労働者をこきつかって逃げてしまうことでとりあえず大きな利益を得ることができるなら、てっとりばやくそうしてしまうほうが「幸福の追求」としては自然な行動でしょう。また労働者の側も、日々人的上下関係のもとで働き、相手のいうことには服従するという関係を継続しているのですから、合理的判断に基づいて対抗することができにくくなる場合が一般的に生じることは当然想定できます。

このようなことから、労働契約関係においては、互いが合理的判断に基づいて行動することが必ずしもなじまない事態が生じやすいといえるのであり、その限りにおいて、特に労働契約関係を対象として「実際に不都合な事態が生じた場合の解決の方法」を体系化しておく必要があるということです。

2.契約内容の一方的決定について
これについては、欧米諸国の状況と日本とでは若干異なるかもしれません。日本では、特に正規労働者の場合、労働契約の成立時には、就くべき業務や勤務場所、作業方法、賃金の計算方法や退職の手続き、労働時間や休憩・休日・休暇等について、あらかじめ一応の合意をするということさえなされず、それらは就業規則を通じて使用者が一方的に決定し、それが周知されていて合理的な内容であれば労働契約を規律するという法制度がとられています(労働契約法7条)。欧米諸国では、むしろ労使の「経済的格差」による力関係によって一方的決定がなされることがあると考えられることが通常のようですが。

パートや有期労働契約の労働者など非正規労働者については、むしろこれらの労働条件があらかじめ特定されますが、ご案内の通り賃金や賞与、退職金、プロモーションの可能性などについて正規労働者より不利な契約形態という認識の下に労働契約が締結されることが一般的なので(もちろん例外があるのは当然の前提です)、実態としては契約内容はやはり使用者がイニシアチブをとるのが通常であるといえるでしょう。

したがって、こうした基本的な契約内容決定の枠組みや内容がいやなら、もちろんご指摘の通り労働者は転職することも退職することも可能です。 ただ、外部労働市場が成熟していない日本では、それもなかなかままなりませんが。

3.労働基準法の守備範囲について
労働者が自ら望むことを規制しないのは、労働基準法が刑罰と行政取締を手段として内容を強制するという手法をとっていることが大きな原因だと思います。つまり、労働者が自ら望んで長時間労働をした場合にまで使用者を罰することはしない、ということです。労基法は、その13条で、労基法の最低基準を下回る合意は契約としては無効だとしていますので、民事的には、たとえ労働者が自ら望んでも、「1日10時間働く」という合意は無効です。

4.売り惜しみについて
ここは少しすれ違いが大きいようですね(笑)。 私としては、労働者の側は「時間」が不利に働く商品を売らざるを得ないということを指摘したつもりです。つまり、取引に時間がかかること自体が相手との関係で不利に働くような商品が「労働力」だということです。そしてそれがほぼ労働者全体に共通だということです。かなり図式化して言えば、使用者の側は、そういう労働者が時差をもって次々現れますから、常にその時点ごとに「旬」の商品を選ぶことが可能ですが、労働者は売りたい時点で買ってくれなければそれだけ商品価値が落ちるものを他の使用者と交渉しなければならなくなります。

5.大企業への対応について
かつて労働時間規制について典型的であったように、最低基準についてさえ、 中小企業には配慮しています。大企業にも、我々から見ると厚労省はやりすぎではないかと思うくらいに、よく意見を聴いて、企業活力をそこなわない範囲での規制を「甘受」してもらっているように見えますが、この点は具体的な個別の規制ごとに検討する必要があるかもしれませんね。

6.法学と経済学
「経済学では,実証的(positive)な分析と規範的(normative)な考察の両方を行います。前者は,人々の意思決定や取引行為等に関して考察 することを通じて,世界がどうなっているのかを知ることが目的です。また後者は,世界がどうあるべきかについて主張するための取組みです。」
というご指摘、非常によく理解できます。しかし、法学でもそれほど変わらないように思います。法学も、人々の意思決定や社会の仕組みについて、実証的に分析をほどこして、そこから帰納的に引き出される結論を踏まえ、あるべき規範の構造について検討していきます。

少し挑発的な言い方をすれば、法学も経済学も、それぞれの持っているメガネを用いて、そのメガネで見える範囲でのみ社会を分析して、その範囲でのみ有用な提案をしているのだが、そのメガネが見える範囲を、経済学は過大評価しすぎで、法学は過小評価しすぎではないでしょうか。

すみません、この点はちょっと大きな話で、またじっくり議論したいと思います。

2011年11月1日火曜日

労働者には合理的な判断力がないのか (安藤)

丁寧なお返事を頂きありがとうございます。2週間ほど空いてしまいましたが,以下では,野川さんからのコメントに対する私の考え方や残されている疑問点について順に説明していきます。

1,労働者には合理的な判断力がないのか
まず「労働法は、法的に見て発生することが一般的であるとみなせる問題を対象としてその解決をはかる装置を考える」という点について,労働法学がこのようなアプローチを採っていることは理解しています。そして「事実として生じやすいトラブルを対象として一定の規制を加えることは合理的」ということも承知しています。

ただし,どのような規制がなぜ必要だと考えるのかについては,いまだにその根拠に納得できていません。この点を明確にするために,労使間の交渉力の格差について野川さんが述べている部分を採り上げて考えてみましょう。

まず野川さんは
「たとえば、安藤さんが提示している例は、経済的なモデルケースとしてはおっしゃる通りのことが言えるでしょうが、実際の現場では、労働者も使用者も、提示されているような合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生します。」
と述べた後で,
「やはり総体としてみれば労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ない」
と結論付けていますね。

ここで労使に格差があることの原因として,合理的な選択をしないことが挙げられていることに注意してください。ここで「合理的な選択をしない」とは,例えば年収300万円という待遇で仕事をしていた労働者に対して,他の条件は一定のままで仮に年収500万円を提示したとしても,転職する(または現在の雇用主へ待遇改善の申し出を試みる)ことをしない人が存在するといったような意味ですね。

これは本当でしょうか。また合理的な判断ができない人が存在していることはそのとおりだとして,誰にどのような判断力の欠如があると労働法学では考えているのでしょうか。この点を明確にする必要があると感じました。

なぜなら国家による契約内容への介入や労働組合の結成を認めることが必要な理由として総論第1章で述べられていたのは,あくまで交渉力の格差であり,判断力の欠如ではなかったからです。

もちろん私も,すべての労働者が合理的に判断できる能力を常に維持していると主張したいわけではありません。例えば長時間労働に対する規制に関して,2007年に書いた新聞記事では「一方で、退職という合理的な判断ができなくなってしまった労働者の保護も考えるべき」と述べています。

しかしすべての労働者があらゆる事柄について合理的に判断できないというのも間違いですね。実際は,ほぼ合理的な判断が可能な領域もあればそうでない領域(例えば中毒が発生すると適切な判断ができないでしょう)もあり,またその程度は人によって異なると思われます。このことを前提とすると,法制度設計の際には,人々の自由意思による決定に介入することの弊害を理解した上で,データに基づく適切な水準の規制が求められます。また規制をするだけでなく適切な判断ができるような情報提供を行うことも有益なはずです。

野川さんは,労働者の判断能力についてどのようにお考えでしょうか。

2,契約内容は使用者が一方的に決めるのか
次に,労働条件を使用者が一方的に決めている場合には法的コントロールが必要という点についてですが,一方的に決めるということの意味が不明確だと感じました。なぜなら,仮に労働条件を使用者側が設定できるとしても,労働者側にも受け入れるか拒否するかの選択が可能だからです。つまり「一方的に決める」のではなく「一方的に決めた内容を提示して,選ばせる」というのが実態ではないでしょうか。

例えば私たちがスーパーで商品を買う際には,多くの場合は相対で交渉するのではなく,店舗側が値段を決めます。そして消費者は買うか買わないか,または他店舗で買うかといった選択をします。このとき売買の契約条件を売手側が一方的に決めているから直ちに問題だと言えるのでしょうか。

私はそうは思いません。このような価格付け方法は,個別の相対交渉にかかる費用を削減するために選ばれているだけであり,スーパーが当該地域において独占や寡占でないかぎりは問題とはなりません。

確かにこのケースでも,スーパーの客が合理的な判断をできないことを前提とすれば,規制や介入が必要と言えるかもしれません。しかし値段が高ければ買い控えをするというのは,多くの客が日常的に行っている合理的判断です。だからこそスーパー側も相場を超えた極端な値付けは行わないのです。

したがって,より条件の良い職場へ転職するといった程度の合理的判断ができる労働者については,仮に使用者が一方的に労働条件を提示したとしても問題はないように思います。例えば平成18年度転職者実態調査を見ると,「会社の将来に不安を感じたから」とか「労働条件(賃金以外)がよくなかったから」など様々な理由で人々は転職していることが分かりますが,この人たちは十分に合理的な判断をしていると言って良いのではないでしょうか。

3,労働基準法の守備範囲について
「労働時間を、命や健康が侵害されない範囲にとどめるよう法が規制するということ」には違和感がありません。医学的なデータに基づく労働時間規制は必要です。しかし残念なことに,労働時間規制が実際にそのように制定運用されているとは思えません。

我が国で行われているのは,36協定があることを前提として,8時間を超えて働かせる場合には残業代を支払うことを定めるのみです。これで命や健康を守るという目的が達成されているのでしょうか。

また労基法は長時間働かせることは禁止しているが,労働者が長時間働くことは禁止していないとのことですが,労働者に判断能力が欠けていることを労働規制の前提とするならば,仮に本人が長時間労働を望んだとしても,後者こそを規制すべきではないでしょうか。

さらに言えば,合理的判断ができない人の健康を守るために必要や規制の水準は不変ではないはずです。昔の炭坑労働と比較してデスクワークが中心のホワイトカラー労働者などでは労働負荷の内容が異なります。時代や働き方の変化に応じて適切な規制の修正が必要だと考えますが,それも実現していないように思われます。

4,労働力が売り惜しみできないという点について
この部分について私が言いたかったことは,特定の相手との間での取引を現時点で行うことに価値があるという点に関しては,労使で対称的だということです。最善の取引を行わず次善の選択をすることにより,取引から生まれたはずの利益が毀損するという意味では,使用者も売り惜しみできないのです。そして場合によっては使用者側のほうが失うものが大きいということを説明しました。よって売り惜しみできないことが理由で,労働者としては「言い値で取引せざるを得ない」とは言えないと考えています。

この点に関しても,もちろん使用者は合理的な判断ができるが労働者にはできないことを前提とすれば,言い値を受け入れてしまうかもしれませんが,労働者にはそこまで判断力がないのでしょうか。

5,大企業と零細企業の区別について
「当該企業の規模や経済状況などを十分に考慮した判断枠組み」について私が疑問に思っている点は,労働法は最低限の基準を定めるという観点からは,企業規模は考慮してはいけないのではないかということです。また大企業に対しては条件を厳しくしてしまうと,大企業にならない方向にバイアスをかけてしまう点にも注意が必要ですね。

6,法学と経済学の相違について
野川さんは
「法学者は、「法学がわかれば世界がわかる」などとは決して言いませんし、法学的理解をすべての社会現象に適用しようなどとも思っていません。しかし経済学者の中には、確かに一定の層として、「経済がわかれば世界がわかる」、「社会現象は経済学を適用してほぼ解決の見通しがつく」と考えている向き」
があるという指摘をされていますが,これはおっしゃるとおり学問の性格によるものでしょう。

経済学では,実証的(positive)な分析と規範的(normative)な考察の両方を行います。前者は,人々の意思決定や取引行為等に関して考察することを通じて,世界がどうなっているのかを知ることが目的です。また後者は,世界がどうあるべきかについて主張するための取組みです。

よって「経済がわかれば世界がわかる」というのは,現状ではそこまでは実現していないにせよ,経済学が世界を分かるために様々な取組みを行っているというのは間違いではないと考えます。また「ほぼ解決の見通しがつく」というのも,すべての社会問題を考えると現状ではまだまだ達成されていないわけですが,解決の見通しをつけるための取組みが着実に行われているのも事実だと思います。

一方で法学については,そもそも法律とは世界を上手く動かす技法であり,その適切な設計と運用を考えるのが法学だと私は考えています。

似たような例を挙げるなら,物理学では世界がなぜこのようになっているのかを理解しようとしていますが,これに対して工学では様々な現実の問題解決の手法が実戦的に検討されていると思います。野川さんの指摘された点は,このように法学と経済学でも目的や手段が異なるということではないでしょうか。

以上,長くなりましたので今日はここまでにします。気長にお待ちしておりますので,どうぞ他のお仕事等に差し支えない範囲でお返事を頂ければ幸いです。

2011年10月14日金曜日

法学は自己の守備範囲を明確にする(野川)

安藤さん、拙著を本当に丁寧にお読みいただき、恐縮です。ご批判に、できるだけ簡潔にわかりやすくなるようお答えしたいと思います。

まず、労働法は出発点として、労働者と使用者という関係に立つ両当事者が展開する社会関係のうち、法的に問題をとらえうる領域を対象として、その合理的なコントロールを模索するという前提があります。そのうえで、いわゆる労働市場の動きについて妥当な範囲と方法で、法の適用対象となる人々が十全に能力を発揮して職を得ることができるようにすることを目的とした法的介入を行うことや、高齢者の生活を安定させるために職業生活からの引退過程をサポートすることなど、法学的方法で対応可能な領域を徐々に拡大しています。

要するに、労働法は労働関係をめぐる諸問題をすべて掌握して全的な解決をめざす、などということは前提としていません。労働法の守備範囲は、法的コントロールが可能な対象を限定したうえで、法の装置を用いた手法によって対応可能な問題を解決しようとするものだということであり、その自己限定は非常に明確です。

この前提から言えるのは、たとえば労働者と使用者との関係について対応する場合でも、労働法は、法的に見て発生することが一般的であるとみなせる問題を対象としてその解決をはかる装置を考えるという方法をとることになります。

たとえば、安藤さんが提示している例は、経済的なモデルケースとしてはおっしゃる通りのことが言えるでしょうが、実際の現場では、労働者も使用者も、提示されているような合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生します。 特に現在では、悪質なベンチャー企業も多く、2年だけ会社を立ち上げてその間全く長期的展望を持たずに徹底的に労働者を搾取しまくり(とりわけ今のような時代なら、2年程度はどれほど不合理に搾取されても黙って働く労働者を雇うことに事欠かないでしょう)、すみやかに会社をたたんでしまって一応の資金だけ得て、あとはあまり危ない橋をわたらずに会社経営を行う、ということは珍しくありません。

こうした事態が生じるのは、やはり総体としてみれば労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ないからであって、19世紀の工業国と21世紀の日本とで本質的な違い(雇われる立場の者が雇う立場の者に対して上限関係と支配関係に立つという事態の本質的な変化)は、少なくとも事実としては見えてこないのではないでしょうか。そして、そうだとすれば、雇用をめぐる社会関係において、事実として生じやすいトラブルを対象として一定の規制を加えることは合理的であろうと思います。

この観点から、具体的なご質問にお答えします。
まず、契約内容が使用者によって左右される、多くは使用者が一方的に決定することになる、とは一概にいえない、という点ですが、まさにおっしゃる通りです。労働法は、事実としてそのような事態(使用者による契約内容の一方的決定)が一般的に観察しうる限りで、必要な範囲で法の装置を用いた介入をしようということであり、実際に対等性が確保されている場合にはそれを尊重した対応をしています。具体的には、特に労働契約関係を対象として、契約内容が使用者によって一方的に決定されている場合に適用されるべきルールを作っています。
注意していただきたいのは、「労働関係においては使用者が労働者に対して労働契約内容を一方的に決定しているので規制する」のではなく、「使用者が労働者に対して一方的に契約を決定する立場に立っていると認められる場合には法的コントロールを行う」のです。

つまり、事実として、労働関係においては使用者が一方的に契約内容を決定する立場に立ちやすいということが認められるので、実際にそのような一方的決定がなされている場合に適用されるルールを作る、ということであって、労働関係であればいつでも使用者を規制する、というわけではありません。たとえば、まさに零細企業で労働者と使用者が実質的にも対等平等に労働契約を締結し、かつ内容の決定もしているとみられる場合は、結果的に通常の契約と同様の法的対応がなされます。

おそらく、誤解が生じやすいのは、労働基準法のような法律が労働者を保護する規定を置いているからだと思いますが、これも、労働者が労働関係において使用者の一方的な行為により人権や自由や健康や安全といった基本的権利を侵害される事態が事実として広範に生じてきたので、「使用者が実際にそのような行為をした場合には」規制するということにとどまります。

労働基準法の守備範囲は、命や健康など人間としての最低限の尊厳を侵されることを阻止しようとするだけで、そこまでいかなければ、かなり使用者が横暴であっても関知していません。 たとえば一日の労働時間は8時間を超えてはならないというのも、使用者が労働者を「働かせる」時間が8時間以内でなければならないと言っているだけであって、労働者が自由な意思で働く時間は全く規制されていません。人間が他者を命令によって労働させるという関係にあるとき、その労働時間を、命や健康が侵害されない範囲にとどめるよう法が規制するということに違和感があるでしょうか。

次に、労働力が売り惜しみできない、という点は、少し誤解があるようです。この意味は、骨董品と労働力を比べるとよくわかります。骨董品は、一般的には、売り惜しみしても価値が減じないだけでなく、むしろ高くなることが通常でしょう。しかし労働力は、使わなければどんどん劣化していく商品です(人間の体と頭に蓄積されたノウハウや勘や労働の活力は、使用されなければ失われるだけです)。確かに、他に買い手があればよいでしょうが、すみやかに見つからなければ劣化は進みます。つまり、「今売る」ことに価値があるので、労働者としては言い値で取引せざるを得ない状態に陥りやすいのです。

さらに、労働法は大企業か零細企業かという区別をかなりしてきました。最長労働時間を短縮するときも、10年間をかけて、大企業にはかなり早い段階で規制をかけ、中小企業や零細企業にはギリギリまで施行を延ばして十分に対応できるよう入念なサポートをしてきましたし、65歳までの雇用を義務付けている高年齢者雇用安定法も、中小企業については今年の3月末まで経過措置を設けていました。また、解雇などが訴訟になった折には、当該企業の規模や経済状況などを十分に考慮した判断枠組みにより結論が出されますので、実際に企業規模で不当な結果が生じるような法的事態はごく少ないはずです。

最後に、これは個人的な印象ですが、法学と経済学の相違の一つとして、法学は非常に自己を限定しているという点があると思います。以上に縷々述べましたように、労働法も、実際に労働者が使用者との関係で不当な事態を甘受させられることが多いという具体的現実から、帰納的に、「労働契約関係において生じうる不都合な事態を類型化し、実際にそのような事態が生じたおりには対応できる仕組みを整えておく」というスタンスをとっているのであり、非常に謙抑的です。 

法学者は、「法学がわかれば世界がわかる」などとは決して言いませんし、法学的理解をすべての社会現象に適用しようなどとも思っていません。 しかし経済学者の中には、確かに一定の層として、「経済がわかれば世界がわかる」、「社会現象は経済学を適用してほぼ解決の見通しがつく」と考えている向きがありますね。それは学問自体の性格の相違にもよるのかもしれませんが、なぜそうなのかが理解できれば、法学と経済学の、表面的ではない相互理解・相互協力も進むのではないかと思います。

読みにくい内容になったかもしれません。不明な点は遠慮なくご指摘ください。次回の議論を楽しみにしています。

2011年9月26日月曜日

じっくり議論していきましょう - 野川

安藤さん、拙著をそんなに丁寧に読んでいただいて本当に光栄です。ご指摘の点、私も丁寧に考えてお答えしていきたいと思います。 少しお時間をいただければ幸いです。

野川『新訂労働法』総論第1章「労働法の原理」について (安藤)

予告してから少し期間が空いてしまいましたが,野川忍著『新訂労働法』の勉強を始めます。その目的は,もちろん野川さんと喧嘩をすることではなく(笑),法学者と経済学者の共通理解を増やすことにあります。そのために,仮に私が野川さんの主張や結論に同意している場合でも,あえて批判的な検討を加えていくこともあります。ご承知置きください。

今回は,総論第1章について内容をまとめた上で,感想と疑問点を提示します。

本章では,労働法の背景にある基礎的な考え方が紹介されています。ここが分からないと,おそらくその後の応用問題は理解できないと思われるため,同意できるか否かは置いておいて,まずは野川さんの思考をトレースできるように丁寧に読み進めることにしました。

最初に第1章の概要をまとめておきます。ただしこれはあくまで概要ですので,できれば本文をご覧ください。

【総論第1章の概要】
使用者と労働者の間の雇用関係は,社会的な上下関係として認識されることがあります。しかし本来,雇用とは契約であり,対等・平等という契約の原則が雇用関係にも貫かれています。

ただし,このように雇用契約を一般的な契約と同等に扱うことにより,歴史的には多くの問題が発生しました。なぜでしょうか。それは,労働者側は自分が持つ労働力という商品を貯めておくことができず,交渉が成立しなければ何も得られないために,相手の譲歩を引き出すことが難しく,結果として雇う側と雇われる側に交渉力の格差が存在するからです。交渉力の格差が発生する原因としては,使用者側と労働者側に大きな経済的格差があることや,労働者は生身の自然人なので同時に多くの企業と交渉することが難しいことなども挙げられます。

そこで多くの国では,雇用契約における交渉力の不均衡を是正することを目的として,国家が契約内容に介入すること(例えば最低賃金法)や労働組合の結成を認めることになりました。

このように労使関係の不均衡とその是正を考えることが労働法の基本的な目的ですが,加えて時代の変化や労働者の多様化に応じた様々な施策が考えられてきました。高齢者雇用や男女平等などがその例として挙げられます。

労働法で扱う対象は,労働基準法や労働契約法のように実際に法律として定められているものだけではありません。法律の解釈を示す,法律の隙間を埋める,法文を一定程度補充するといった役割を果たす判例法理に加えて,労働契約,就業規則,労働協約,労使協定なども考察の対象となります。

労働法は,時代の変化を受けて変わりつつあります。究極的には個々の労働者の自立を目指して,法律を拡充することや,労働者協同組合やNPOなど多様化する働き方の整備をすることも必要でしょう。その背景にある考え方は,雇用社会が誰にでも平等に開かれていて(オープン),公正で(フェア),連帯の契機が保障されていなければならない(ソーシャル)という理念です。

【総論第1章の感想】
本章を読んで気になった点は,大きく分けて3つあります。

1,本章では,労使の交渉力が非対称であることが理由で歴史的に問題が発生したこと,そしてその問題を克服するために国家の介入と労働組合の結成が必要であることが説明されています。しかし労使の交渉力がなぜ非対称なのかについて挙げられている3つの説明が良く分かりませんでした。この点は後で別に扱います。

また交渉力の非対称により過去に問題があったとして,交渉力の非対称やそれに伴う問題は現在でも同じく存在するのでしょうか。例えばインターネット等の発達により労働者側が他の企業における待遇等の情報を得やすくなったことから,仮に交渉力の非対称が以前よりも減少しているとしたら,必要な対策の内容は変化することになります。そして国家による介入には弊害もあることを考えると,過去に問題があったから現在も変わらず介入が必要というだけでは正当化の根拠が不足しているように感じました。

なお,交渉力に違いがあることを前提として対策を考えるだけでなく,交渉力の差を縮めることを目的とする施策についても検討することは有益ですね。

2,すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活をおくることを政策目的としたときに,稼得能力の低い労働者や貧困等の問題を雇用関係の中だけで解決することはできません。これから労働市場に参加する若者や失業者,リタイアした高齢者や零細企業の経営者等,現在働いている労働者以外の人に関しても配慮が必要です。

労働問題を考える際に,このように現在雇われている労働者だけに限らずに社会全体への影響を考える視点は,すでに労働法学者と労働経済学者の間で共通のものになっていると言って良いでしょう。

本章では,どうも労働者対使用者という昔ながらの対立の構図が強調されすぎているように感じました。加えて,労使間だけでなく労働者同士の利害対立が近年より重要になっていることにも注意が必要だと思います。

3,本章では「当然である」といった表現が複数回出てきますが,これに違和感を覚えました。最初から野川さんと近い考え方を持っている人にとってはそれで良いのかもしれませんが,異なる意見の人を最初から排除しているように感じられるのです。

例えば「法人・組織と生身の個人が契約について中身を交渉して締結するとなれば,前者が有利に立つのは当然である」とありますが,本当でしょうか。これをすぐには納得できない人のためにも詳細な説明が必要でしょう。

また最後の「理念」についても,オープンは良いのですが,どのような状態がフェアかについては人により考え方が異なりますし,ソーシャルについては連帯を望まない人の存在をどのように考えるかが重要になると思われます。

これらの感想と要望は,おそらくないものねだりなのでしょう。労働法の基礎的な考え方を提示することが目的の本章で詳細な話はできないでしょうし,本書が法科大学院向けの教科書であることも簡潔に記述されている理由かもしれません。いずれにせよ,これから本書を読み進めることで,野川さんの考え方がより明確に見えてくるでしょう。

【同意できない,またはよく分からない点】
本章では「相手の思うままの契約内容を押し付けられる」とか「労働力という商品は,売り惜しみができない」といったような表現がありますが,これらは本当でしょうか。

1,まず「相手の思うままの契約内容を押し付けられる」についてです。

そもそも労使の間で労働契約が結ばれるのは取引の利益があるからです。そして特定の契約に労働者が参加するためには,現時点で選択可能な就職先の中で,他の企業で働くよりも当該企業における労働条件が相対的に良くなければなりません。

このように考えると,仮に交渉力に差があったとしても,労働条件はどこまでも切り下げられるわけではありません。経済学では,交渉の結果としてどのような労働条件になるのかは,双方が持つ代替的な選択肢から得られる満足度と交渉の際の我慢強さによって決まると考えることが一般的です。

例えばAさんがX社で働くとX社の利益が一年あたり800万円増加するのに対して,Y社で働く場合には400万円しか増えないというケースを考えてみましょう。このときAさんがX社で働く方が効率的だと言えます。そして両社がより良い条件を提示することでAさんのことを奪い合った結果,AさんはX社から少なくとも年収400万円を引き出すことができます。このようにAさんがX社と交渉する際には,この人が持つ代替的な機会(ここではY社の提示金額)が大きければ大きいほどより良い待遇を引き出すことが可能になります。

それではAさんがX社で働くことから発生する利益である800万円のうち,Aさんに最低限支払わないといけない400万円を引いた残りの400万円はどちらのものになるのでしょうか。これは交渉のやり方や交渉時の双方の我慢強さなどに影響されますが,資産が多いなどの理由であせって交渉をまとめる必要が無い側,つまり我慢強い側がより多くを得られることになります。おそらく労働者と使用者を比較した場合には後者の方が我慢強いと考えても良いでしょう。しかし極端なケースとして,仮に残りのすべてを使用者側が受け取ると考えたとしても,労働者側が最低賃金相当額しか受け取れないことにはなりません。そのような場合でも少なくとも400万円は得られるのです。

非常に簡略化した交渉過程を用いて説明しましたが,ここで言いたかったことは,「相手に思うままの契約内容を押し付けられる」といった表現を用いてしまうと,これを読んだ人が搾取する使用者と可哀想な労働者といった対立の構図に過度に捕われてしまう可能性があり,それは読者のためにならないということです。

2,続いて「労働力という商品は,売り惜しみすることができない」についてです。

ここではまず労働力は本当に売り惜しみできないのかについて,また使用者側は売り惜しみができるのかについて考えてみましょう。

まず「労働力は,売らないでおけばそのまま消滅するだけである」とありますが,これは一度に一つの企業としか交渉ができないこと,また交渉期間中に短期的な仕事を探すことができないことを暗黙のうちに仮定しています。

しかし求職者側は,交渉期間の間は日雇い労働など別の手段でお金を稼ぐことも可能です。特定の企業との交渉に時間がかかったり,契約が結ばれなかったりしたとしても,それにより直ちに収入が失われるとは限りません。

次に使用者側のことを考えてみましょう。

まず,通常は使用者側が持つ機械設備や原材料費など(これを資本といいます)と労働者の労働力が揃った時にはじめて収益が発生することに注意してください。よって使用者側にとっても求職者と合意できなければ,その人を雇うことができたら得られたはずの収益を手に入れられないことになります。

ここで仮に使用者側が資本を現金で持っているなら,預金しておくことができますね。しかし預金しておくよりも生産活動に使った方が収益は当然大きいはずです。そうでなければ,この使用者はそもそも人を採用しようなどとは考えません。

このように労働者側にとっても使用者側にとっても,契約が成立しなかった場合には自分の持つ労働力や資本を次善の方法で活用することになります。よって契約交渉時に,労働者側だけが一方的に「売り惜しみすることができない」という主張は成り立ちません。

またここでは資本が現金の形で所有されている場合を考えましたが,これが工場や機械などの形で保有されている場合には,他社へ貸し出すことや他の使途に用いることが難しければ,使用者側は契約が成立するまでの間は何も得られない可能性もあるのです。

3,最後に指摘したいのは,労使間の交渉力の格差を理由として国家による労働者の保護や労働組合の役割を正当化することは,そもそも考え方として問題があるのではないかという点です。

本章では,交渉力の非対称の原因として(1)労働力という商品は貯蓄できないこと,(2)使用者側と労働者側に大きな経済的格差があること,(3)労働者は生身の自然人なので同時に多くの企業と交渉することが難しいことなどが挙げられています。これらが理由であるなら,1人の使用者が1人の労働者を雇うような零細企業と大企業とでは,正当化できる労働者保護の内容や程度が変わってくるように思われます。なぜなら零細企業の場合には,(2)については労使の経済的格差は小さく,(3)については同時交渉の難しさについても大企業と比べて労使間の差異が小さいからです。

このとき例えば大企業では労働組合の結成が正当化されるが中小零細企業では正当化の根拠が相対的に弱いといったことにならないでしょうか。

また反対に,仮に同様の仕事をしていたとしても,現実には大企業で働く労働者の方が待遇が良い可能性を考えると,働き方の最低水準を定めるという趣旨からは,逆に零細企業では国家による保護や組合の結成を認めるべきだが大企業では必要性の程度が低いということにはならないでしょうか。

「同意できない,またはよく分からない点」として挙げた3点に関して,1と2については私の主張をどのように評価されるか,また3については労働法による保護の根拠は,大企業と零細企業とで同じであるべきか否かについて考え方を教えて頂ければ有り難いです。

どうぞよろしくお願いします。

2011年9月6日火曜日

野川忍著『新訂労働法』商事法務2010 (安藤)

すっかり間が空いてしまい申し訳ありません。このBlogで次に何を書こうか迷っているうちに時間が経ってしまいました。

さて次回の投稿から少しの間は,野川さんの執筆した『新訂労働法』(商事法務2010)を勉強してみようかと考えています。せっかく著者とのやり取りができる環境なので,まずは分からないところや納得のいかないところを質問したいと思います。また経済学の立場から補完的・代替的な説明が可能である場合には,できるだけ丁寧に紹介します。

まずは総論の第1章を扱います。おそらく初回は今週末に書き込みますので,関心をお持ちの方はぜひ『新訂労働法』をお買い求めください。(←営業協力!)

2011年6月15日水曜日

震災後労働法制のあり方について(野川)

長い間ご無沙汰してしまいました。

大震災のあと、世界はすっかり様がわりしてしまい、雇用と労働をめぐる議論にも大きな影響があったことは間違いありません。

「この事態の中で、自分にできることは何か」という疑問を、ほとんどの人々が突き付けられ、それぞれの場で行動されました。私は労働法研究者の末席を汚しているので、当初の衝撃から立ち直ってすぐに、ただちに続発するであろう労働問題に対してどのような法的対応ができるのかについて基本的なハンドブックをつくろうと考え、二か月ほどはそれにかかりきりでした。

今般、緊急出版の形で刊行された「Q&A 震災と雇用問題」(商事法務)では、厚労省や各自治体や労使団体等に寄せられている具体的な疑問や質問を集め、加えて今後想定される労働条件の変更や人事システムの改革などを見据えて、そこで起こるであろう諸課題への一応の解答を示したつもりです。

この本を執筆するなかで絶えず頭の中を支配していたのは、 短期的問題、中期的問題、長期的課題のいずれについても前提となるべき原則は何であるべきか、ということでした。事態があまりにも規模が大きく、また深刻である場合、当座の問題を処理するだけで膨大なエネルギーが必要となるため、ともすれば将来への展望をともなった対応にまで準備が及ばないことがあります。しかし、そのような歴史的苦境を前にしたときには、まずは土台となる原則を踏まえ、そのうえで時間の経過とともに段階的に基本準則を確認し、それぞれの現場ではできるだけ具体的で適切な状況対応をする、というのが常道であろうと思います。
今回の震災とそこから生じる今後数十年にわたる諸課題への対応を考えるとき、少なくとも労働問題 については、以下のような段取りで検討を行うことが必要ではないでしょうか。

まず土台となる原則としては、「労使対等原則による協働」という理念があげられるでしょう。これは通時的にも共時的にも普遍的な労働世界の基本理念であり、平時はもちろんのこと、非常時であっても、いや、見方によっては非常時であればなおさら堅持すべき理念であると言えます。「緊急事態では使用者の専権によって事態を乗り切る」という発想になりがちな日本では特に強調されるべきであろうと思います。

つぎに、復旧から復興への移行段階では、災害特例のような形で次々と発せられた行政の特別措置を十全に活用し、今後必要な新たな雇用の創出、労働保険・社会保険のリニューアル、労使関係の再構築等をすみやかに効果的に実現することが優先されるべきでしょう。そのためには、労働法制についても、時限法なども視野においた新制度・新ルールの定立が急がれます。政府は、規則や通達や指針を整理して、国としてめざす方向性を国民にわかりやすく明確に示すことが必要です。

そして、将来も起こりうる大災害、突発的で巨大な労働市場の混乱といった事態を想定して 多くの企業で行われるであろう制度変更については、労働協約、就業規則、個別労働契約による対応それぞれについて、労働条件の不利益変更や使用者の裁量の大幅な拡大が許される基準や限界を確認し、労使関係の強化・助成をどのように具体化させるかを早急に検討すべきであろうと思います。

以上は包括的な前提ですが、今後は個別の課題について、さらに詳細で明確な検討が行われるべきであることは言うまでもありません。