2011年11月9日水曜日

合理的選択になじまない労働契約の構造

安藤さん、ご丁寧な指摘をありがとうございます。やはり、こうして指摘をしていただくと、説明の工夫や自分の発言のいたらない点などにあらためて注目することができるので、対論は有益ですね。

1.合理的判断について
まず、労働者に合理的判断力がないのか、ということですが、これについては、私が悪質なベンチャー企業の例をあげて「労使とも合理的選択をしない場合がありうる」と指摘した点が問題となっています。

私が言いたかったのは、労働者が合理的判断ができないという意味ではなく、労働契約という契約が、当事者の合理的判断を、少なくとも売買やリースのようには徹底させえないような性格を内包している、ということです。つまり、市場における人間の行動を法的に秩序付けるのが「契約」というものなのですが、労働契約は異質な特性があるということです。

少しだけ「そもそも論」を許してください。 まず、人間は当然ながら「合理的行動」をすることが目的で生きているわけではなく、「快」を求めて生きています。それぞれの個体が、自分にとって心地よいことを実現しようとして生きています。それを基本的人権として認めたのが憲法でいう「幸福追求権」 です。そして憲法は、人々の快を求める行動が互いに衝突しあう「社会」を整序する方法として、「私的自治」という理念を提示しています。これは、市民が互いに自分の幸福と他者の幸福を確認し合って、譲るべきところと主張すべきところを合意するというやり方により、「自らの幸福追求の範囲を確保し、限界を画定する」ということです。 その最も効果的な方法が「契約」だというのは、長い歴史の中でほぼ一致して了解されているところでしょう。契約は、自分の利益と相手の利益とを合意によって調整するので、そこでは合理的な計算、予測が最も役に立つ手段となります。


ここで大切なのは、合理的な判断や行動は、それ自体が目的ではなく、自分の利益・幸福を実現するための「手段」だということです。したがって、別に合理的に判断しなくてもそれらが実現できるなら、あえて合理的判断による必要はありません。

労働契約という契約は、どの法系においても、出自を奴隷制度や徒弟制度に負っています(たとえばアメリカの雇用関係の判例には、よく「master & servant」とというタイトルがつけられていました)。当事者の一方が相手の命令に服従して相手の利益実現のために行動するという形態は、まさに奴隷や徒弟の働き方を示していますね。資本主義と市場経済が一般化していく近代においては、それが「指揮命令に服して労働すること」と「報酬を支払うこと」の対価関係を軸とした「契約」として再構成されました。しかし、やはり「相手に服従して働く」ことで相手からお金をもらうという「合意」とそこから生じる実態は、双方の間に単に仕事の上ではない人的な上下関係を生じがちであることは争えないでしょう。労働契約は、「委託契約」や「請負契約」など、相手のために自分の労働力を提供するという意味では共通する他の契約類型と異なって、「相手の命令に服する」という点が特徴なのですから。

さて、この基本的実態に加えて、一般的に労働者と使用者との間にみられる経済的格差や、労働力は売り惜しみができないという実態から、「互いの利益を合意により調整する」という合理的判断が必ずしもなされない事態が生じます。前回示したベンチャー企業の例では、使用者は、とにかく徹底的に労働者をこきつかって逃げてしまうことでとりあえず大きな利益を得ることができるなら、てっとりばやくそうしてしまうほうが「幸福の追求」としては自然な行動でしょう。また労働者の側も、日々人的上下関係のもとで働き、相手のいうことには服従するという関係を継続しているのですから、合理的判断に基づいて対抗することができにくくなる場合が一般的に生じることは当然想定できます。

このようなことから、労働契約関係においては、互いが合理的判断に基づいて行動することが必ずしもなじまない事態が生じやすいといえるのであり、その限りにおいて、特に労働契約関係を対象として「実際に不都合な事態が生じた場合の解決の方法」を体系化しておく必要があるということです。

2.契約内容の一方的決定について
これについては、欧米諸国の状況と日本とでは若干異なるかもしれません。日本では、特に正規労働者の場合、労働契約の成立時には、就くべき業務や勤務場所、作業方法、賃金の計算方法や退職の手続き、労働時間や休憩・休日・休暇等について、あらかじめ一応の合意をするということさえなされず、それらは就業規則を通じて使用者が一方的に決定し、それが周知されていて合理的な内容であれば労働契約を規律するという法制度がとられています(労働契約法7条)。欧米諸国では、むしろ労使の「経済的格差」による力関係によって一方的決定がなされることがあると考えられることが通常のようですが。

パートや有期労働契約の労働者など非正規労働者については、むしろこれらの労働条件があらかじめ特定されますが、ご案内の通り賃金や賞与、退職金、プロモーションの可能性などについて正規労働者より不利な契約形態という認識の下に労働契約が締結されることが一般的なので(もちろん例外があるのは当然の前提です)、実態としては契約内容はやはり使用者がイニシアチブをとるのが通常であるといえるでしょう。

したがって、こうした基本的な契約内容決定の枠組みや内容がいやなら、もちろんご指摘の通り労働者は転職することも退職することも可能です。 ただ、外部労働市場が成熟していない日本では、それもなかなかままなりませんが。

3.労働基準法の守備範囲について
労働者が自ら望むことを規制しないのは、労働基準法が刑罰と行政取締を手段として内容を強制するという手法をとっていることが大きな原因だと思います。つまり、労働者が自ら望んで長時間労働をした場合にまで使用者を罰することはしない、ということです。労基法は、その13条で、労基法の最低基準を下回る合意は契約としては無効だとしていますので、民事的には、たとえ労働者が自ら望んでも、「1日10時間働く」という合意は無効です。

4.売り惜しみについて
ここは少しすれ違いが大きいようですね(笑)。 私としては、労働者の側は「時間」が不利に働く商品を売らざるを得ないということを指摘したつもりです。つまり、取引に時間がかかること自体が相手との関係で不利に働くような商品が「労働力」だということです。そしてそれがほぼ労働者全体に共通だということです。かなり図式化して言えば、使用者の側は、そういう労働者が時差をもって次々現れますから、常にその時点ごとに「旬」の商品を選ぶことが可能ですが、労働者は売りたい時点で買ってくれなければそれだけ商品価値が落ちるものを他の使用者と交渉しなければならなくなります。

5.大企業への対応について
かつて労働時間規制について典型的であったように、最低基準についてさえ、 中小企業には配慮しています。大企業にも、我々から見ると厚労省はやりすぎではないかと思うくらいに、よく意見を聴いて、企業活力をそこなわない範囲での規制を「甘受」してもらっているように見えますが、この点は具体的な個別の規制ごとに検討する必要があるかもしれませんね。

6.法学と経済学
「経済学では,実証的(positive)な分析と規範的(normative)な考察の両方を行います。前者は,人々の意思決定や取引行為等に関して考察 することを通じて,世界がどうなっているのかを知ることが目的です。また後者は,世界がどうあるべきかについて主張するための取組みです。」
というご指摘、非常によく理解できます。しかし、法学でもそれほど変わらないように思います。法学も、人々の意思決定や社会の仕組みについて、実証的に分析をほどこして、そこから帰納的に引き出される結論を踏まえ、あるべき規範の構造について検討していきます。

少し挑発的な言い方をすれば、法学も経済学も、それぞれの持っているメガネを用いて、そのメガネで見える範囲でのみ社会を分析して、その範囲でのみ有用な提案をしているのだが、そのメガネが見える範囲を、経済学は過大評価しすぎで、法学は過小評価しすぎではないでしょうか。

すみません、この点はちょっと大きな話で、またじっくり議論したいと思います。

2011年11月1日火曜日

労働者には合理的な判断力がないのか (安藤)

丁寧なお返事を頂きありがとうございます。2週間ほど空いてしまいましたが,以下では,野川さんからのコメントに対する私の考え方や残されている疑問点について順に説明していきます。

1,労働者には合理的な判断力がないのか
まず「労働法は、法的に見て発生することが一般的であるとみなせる問題を対象としてその解決をはかる装置を考える」という点について,労働法学がこのようなアプローチを採っていることは理解しています。そして「事実として生じやすいトラブルを対象として一定の規制を加えることは合理的」ということも承知しています。

ただし,どのような規制がなぜ必要だと考えるのかについては,いまだにその根拠に納得できていません。この点を明確にするために,労使間の交渉力の格差について野川さんが述べている部分を採り上げて考えてみましょう。

まず野川さんは
「たとえば、安藤さんが提示している例は、経済的なモデルケースとしてはおっしゃる通りのことが言えるでしょうが、実際の現場では、労働者も使用者も、提示されているような合理的な選択をしない結果となる事態がいくらでも発生します。」
と述べた後で,
「やはり総体としてみれば労働者と使用者との間には格差があると一般的に評価せざるを得ない」
と結論付けていますね。

ここで労使に格差があることの原因として,合理的な選択をしないことが挙げられていることに注意してください。ここで「合理的な選択をしない」とは,例えば年収300万円という待遇で仕事をしていた労働者に対して,他の条件は一定のままで仮に年収500万円を提示したとしても,転職する(または現在の雇用主へ待遇改善の申し出を試みる)ことをしない人が存在するといったような意味ですね。

これは本当でしょうか。また合理的な判断ができない人が存在していることはそのとおりだとして,誰にどのような判断力の欠如があると労働法学では考えているのでしょうか。この点を明確にする必要があると感じました。

なぜなら国家による契約内容への介入や労働組合の結成を認めることが必要な理由として総論第1章で述べられていたのは,あくまで交渉力の格差であり,判断力の欠如ではなかったからです。

もちろん私も,すべての労働者が合理的に判断できる能力を常に維持していると主張したいわけではありません。例えば長時間労働に対する規制に関して,2007年に書いた新聞記事では「一方で、退職という合理的な判断ができなくなってしまった労働者の保護も考えるべき」と述べています。

しかしすべての労働者があらゆる事柄について合理的に判断できないというのも間違いですね。実際は,ほぼ合理的な判断が可能な領域もあればそうでない領域(例えば中毒が発生すると適切な判断ができないでしょう)もあり,またその程度は人によって異なると思われます。このことを前提とすると,法制度設計の際には,人々の自由意思による決定に介入することの弊害を理解した上で,データに基づく適切な水準の規制が求められます。また規制をするだけでなく適切な判断ができるような情報提供を行うことも有益なはずです。

野川さんは,労働者の判断能力についてどのようにお考えでしょうか。

2,契約内容は使用者が一方的に決めるのか
次に,労働条件を使用者が一方的に決めている場合には法的コントロールが必要という点についてですが,一方的に決めるということの意味が不明確だと感じました。なぜなら,仮に労働条件を使用者側が設定できるとしても,労働者側にも受け入れるか拒否するかの選択が可能だからです。つまり「一方的に決める」のではなく「一方的に決めた内容を提示して,選ばせる」というのが実態ではないでしょうか。

例えば私たちがスーパーで商品を買う際には,多くの場合は相対で交渉するのではなく,店舗側が値段を決めます。そして消費者は買うか買わないか,または他店舗で買うかといった選択をします。このとき売買の契約条件を売手側が一方的に決めているから直ちに問題だと言えるのでしょうか。

私はそうは思いません。このような価格付け方法は,個別の相対交渉にかかる費用を削減するために選ばれているだけであり,スーパーが当該地域において独占や寡占でないかぎりは問題とはなりません。

確かにこのケースでも,スーパーの客が合理的な判断をできないことを前提とすれば,規制や介入が必要と言えるかもしれません。しかし値段が高ければ買い控えをするというのは,多くの客が日常的に行っている合理的判断です。だからこそスーパー側も相場を超えた極端な値付けは行わないのです。

したがって,より条件の良い職場へ転職するといった程度の合理的判断ができる労働者については,仮に使用者が一方的に労働条件を提示したとしても問題はないように思います。例えば平成18年度転職者実態調査を見ると,「会社の将来に不安を感じたから」とか「労働条件(賃金以外)がよくなかったから」など様々な理由で人々は転職していることが分かりますが,この人たちは十分に合理的な判断をしていると言って良いのではないでしょうか。

3,労働基準法の守備範囲について
「労働時間を、命や健康が侵害されない範囲にとどめるよう法が規制するということ」には違和感がありません。医学的なデータに基づく労働時間規制は必要です。しかし残念なことに,労働時間規制が実際にそのように制定運用されているとは思えません。

我が国で行われているのは,36協定があることを前提として,8時間を超えて働かせる場合には残業代を支払うことを定めるのみです。これで命や健康を守るという目的が達成されているのでしょうか。

また労基法は長時間働かせることは禁止しているが,労働者が長時間働くことは禁止していないとのことですが,労働者に判断能力が欠けていることを労働規制の前提とするならば,仮に本人が長時間労働を望んだとしても,後者こそを規制すべきではないでしょうか。

さらに言えば,合理的判断ができない人の健康を守るために必要や規制の水準は不変ではないはずです。昔の炭坑労働と比較してデスクワークが中心のホワイトカラー労働者などでは労働負荷の内容が異なります。時代や働き方の変化に応じて適切な規制の修正が必要だと考えますが,それも実現していないように思われます。

4,労働力が売り惜しみできないという点について
この部分について私が言いたかったことは,特定の相手との間での取引を現時点で行うことに価値があるという点に関しては,労使で対称的だということです。最善の取引を行わず次善の選択をすることにより,取引から生まれたはずの利益が毀損するという意味では,使用者も売り惜しみできないのです。そして場合によっては使用者側のほうが失うものが大きいということを説明しました。よって売り惜しみできないことが理由で,労働者としては「言い値で取引せざるを得ない」とは言えないと考えています。

この点に関しても,もちろん使用者は合理的な判断ができるが労働者にはできないことを前提とすれば,言い値を受け入れてしまうかもしれませんが,労働者にはそこまで判断力がないのでしょうか。

5,大企業と零細企業の区別について
「当該企業の規模や経済状況などを十分に考慮した判断枠組み」について私が疑問に思っている点は,労働法は最低限の基準を定めるという観点からは,企業規模は考慮してはいけないのではないかということです。また大企業に対しては条件を厳しくしてしまうと,大企業にならない方向にバイアスをかけてしまう点にも注意が必要ですね。

6,法学と経済学の相違について
野川さんは
「法学者は、「法学がわかれば世界がわかる」などとは決して言いませんし、法学的理解をすべての社会現象に適用しようなどとも思っていません。しかし経済学者の中には、確かに一定の層として、「経済がわかれば世界がわかる」、「社会現象は経済学を適用してほぼ解決の見通しがつく」と考えている向き」
があるという指摘をされていますが,これはおっしゃるとおり学問の性格によるものでしょう。

経済学では,実証的(positive)な分析と規範的(normative)な考察の両方を行います。前者は,人々の意思決定や取引行為等に関して考察することを通じて,世界がどうなっているのかを知ることが目的です。また後者は,世界がどうあるべきかについて主張するための取組みです。

よって「経済がわかれば世界がわかる」というのは,現状ではそこまでは実現していないにせよ,経済学が世界を分かるために様々な取組みを行っているというのは間違いではないと考えます。また「ほぼ解決の見通しがつく」というのも,すべての社会問題を考えると現状ではまだまだ達成されていないわけですが,解決の見通しをつけるための取組みが着実に行われているのも事実だと思います。

一方で法学については,そもそも法律とは世界を上手く動かす技法であり,その適切な設計と運用を考えるのが法学だと私は考えています。

似たような例を挙げるなら,物理学では世界がなぜこのようになっているのかを理解しようとしていますが,これに対して工学では様々な現実の問題解決の手法が実戦的に検討されていると思います。野川さんの指摘された点は,このように法学と経済学でも目的や手段が異なるということではないでしょうか。

以上,長くなりましたので今日はここまでにします。気長にお待ちしておりますので,どうぞ他のお仕事等に差し支えない範囲でお返事を頂ければ幸いです。