2011年2月19日土曜日

契約による対応の困難さについて (野川)

まず、もう一度我々が何を議論しているのかを確認したいと思います。

発端は、「正規社員は既得権者なのか?」という安藤さんの問題提起でした。安藤さんは、私の理解によれば「正社員は確かに既得権を有しているが、それは十分に合理的な理由のあることであって、それを奪うには原則として意を尽くし た説明と合意形成が必要であり、それもかなわないときは一定の対価の支払いが保証されるべき」という見解を述べられ、私がそれに対して、正社員という法的地位はなく、企業社会の慣行によって、雇用保障も高い処遇も享受できるような「正社員」と不安定雇用と低い処遇に置かれている非正規従業員がいるのであり、パート労働者が正社員の上司になっても有期雇用労働者が正社員より実際上雇用の安定が保証されても、それはまさに契約の自由であることを示しました。そして、現在の「慣行」は、正社員に負わされる過大な責務(雇用保障や一定の高い処遇と引き換えに強大な人事権への屈従を承認し、過酷な長時間労働や遠隔地配転にも応じるなど)を内容として、まさに契約の自由という原則を通じて成り立っていることを指摘したのです。

議論が具体化したのはそこから先で、正社員が一定の雇用保障を享受するのはそれなりの合理的理由があるとした場合、整理解雇が許されるのはどうしてか、という課題を検討すべきであると安藤さんから提起がありました。そこから、整理解雇とは何か、またこれについて適正なルールはどうあるべきか、という議論に移っていきました。

そこで、今回は、当初の我々の問題意識を再確認して、それを踏まえながら当面の問題である整理解雇について、安藤さんの直近のご意見への私の考えを述べたいと思います。

私たちの問題意識は、(もしズレていたら訂正お願いします)「正社員という『事実上の』既得権が正当化される根拠は何か、それは合理的か、また今後労働者と企業との関係は総じてどうあれば当事者にとっても社会全体にとっても適切か」ということではないかと思います。そして今までのところ、企業は企業利益の観点から、長期雇用を保障しつつ十全に労働力を発揮して企業利益に貢献してくれる正社員という地位を維持しているのだ、という共通認識があるように思います。。

この観点からすると、整理解雇とは、主として企業の経営判断によって労働者との労働契約を一方的に解約することを意味するので、企業が正社員に対して長期雇用を保障することで多大な企業利益を得てきている以上、 人員整理が必要な事態であると企業が判断しても、そう簡単に解雇することは約束違反であり、何らかの明確なルールが必要であるということになります。

やっと前回までの議論にたどり着きました、迂遠ですみません。安藤さんは、 「契約にもとづく長期雇用保障は本当に利用されないのか」というタイトルで、私の意見について二つのご指摘をしておられます。

一つは、雇用期間や職種をいろいろ組み合わせた多彩な労働契約のメニューを用意し、その中で長期雇用保障を明記すれば、整理解雇の可能性やその範囲等について予見可能性があるので、契約にもとづく長期雇用保障システムを導入すべきである」という安藤さんの意見を「現実的でない」と批判した私の考えに対する疑問でした。
安藤さんの疑問を私なりに理解しますと、「なぜ現実にそのような多彩な契約が普及しないのか、それは普及を試みることが無駄ということなのか、それともただ実際には普及していないということなのか、もし前者ならば普及の可能性をなお追求すべきではないか」ということだと思います。

私が「現実的でない」と指摘した背後には、企業も労働者も、明確な契約を「柔軟な対応の障壁となる」「契約内容に拘束されるのは得策ではない」と考えているのではないか、という想定があります。
つまり、日本で失業率がかなり低いのが当たり前と認識されていますが(御承知の通り、ドイツでは8%を下回ればまあまあ合格ですが、日本では6%を上回ったら深刻な事態と受け止められるでしょう)、低い失業率の理由の一つとして、労働契約が締結された当初は予定していなかった事態が生じて大幅な事業再編の必要性に直面しても、使用者の判断によって労働条件や処遇や労働者の地位を変更して何とか解雇の可能性は低下させられる、という労使の思惑が普及していることがあるように思うのです。 見方を変えれば、かくまでに労働者は「現在所属している企業からの離脱」に強い恐怖心を抱いているし、使用者も、労働者に「経営上の必要性があっても解雇まではしない」と信じさせてロイヤリティーをいっそう発揮させるほうがコストが安いと考えているのではないでしょうか。その背景には、転職や離職の打撃があまりにも大きすぎるという日本の労働市場の現実があると思います。

実は私も、労働者の交渉力を十分に補強したうえで、個別契約の明確化は必要だと思います。しかし、上記のような状況が変わらない限り、やはり多彩な労働契約による予見可能性の確保は難しいと判断します。そして、優先して取り組むべきは、転職が大きな打撃とならないような労働市場をどう構築するか、労働者の職業能力の普遍化をどう確立するか、といったことではないかと思います。

次に 整理解雇の四要素に代わる裁判所の判断基準としての「解雇後の生活保障と転職費用」や「労働者との話し合い」ですが、確かに、そもそも赤字経営が続いて整理解雇に踏み切るような場合はそのような費用を企業は出そうにも出せないし、話し合いも定式化されてしまうのではないか、というご懸念はその通りだと思います。

ただ、やはり整理解雇を行う当該企業は、企業社会全体での雇用維持という原則を踏まえつつも、「雇用保障の原則がありながら、実際に解雇を実施した当該企業」としての責任は問われざるを得ないというのが、現在の社会通念ではないでしょうか。具体的な費用の額は、転職市場の成熟度によって異なると思いますが、すくなくとも、当該「解雇実施企業」は、一定の個別責任を果たすべきであり、その表象としての生活保障と転職費用のある程度の負担は必要であると思います。

また、 話し合いについては、なぜその労働者の雇用を維持できないのか、雇用を維持するためにどのような努力をしたうえでの判断なのかについての情報公開と説明とを義務付け、実際に説得をどれだけ行ったかは、これまでの判例から、ある程度実質的な判断枠組みが形成されているので、十分に可能ではないかと思いますが、この点についてはもう少し検討してみたいと思います。

最後に、やはり日本の労働契約はまだまだ「身分契約」だと認識されているなあ、とつくづく感じます。この点は、比肩しうべき先進諸国とはかなり異なりますね。整理解雇も「身分を奪うのはいけない」という意識の強さが、これれほどルール形成が 困難な理由の中心の一つとなっているのではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿